小曽根賢

小曽根賢

最近の記事

並行書簡-48

 今日という今日は、私は、顕在的にわかっていること、すなわち、書く前の段階から「これを書くぞ!」と決めていたことを書くぞ。  私は、「すなわち」に続く言葉を書きながら、いや、どちらかというと読みながら、「“顕在的にわかっていることを書く”というのは、そういうことなのか。」と思ってしまった。つまり、矛盾しているのだ。“顕在的にわかっていることを書く”ということを宣言する文に、私が顕在的にわかっていなかった内容が含まれていた。私は“含まれてしまっていた”と入力しそうな予感があった

    • 並行書簡-46

       今日は、さっき、パートナーと、お気に入りのカフェに行ってきました。麻を使った料理のオーガニックレストランで、ビルの二階に店舗があり、南向きの大きな、大きな窓から、由比ヶ浜の海が一望できます。よく晴れた日は、キラキラ、キラキラ、眩しくて、眩しい景色が、また嬉しくもあって、“眩しい”と“嬉しい”の境界線が曖昧になる感覚が、とても嬉しいです。この、二つの“嬉しい”も、本当は、それぞれ、少し違うのかもしれませんが、それは、書いている時にはそう思うだけで、その場で、その時間を過ごして

      • 並行書簡-44

         今日はよく晴れて気温もちょうどよく、実に執筆日和であるが、朝起きたら雄馬から連絡が、というのは並行書簡を書いた連絡が来ておらず、その時に私がどう思ったか忘れた。もう、午後の一時四十九分だ。私が起きたのは、朝の八時だ。取り出せるわけが…「ない」と書こうとしていたが、それは言い過ぎだ。必要があれば、必要な時に出てくる。つまり、“取り出す”ものではないのだ。  私は、昨夜から今朝にかけて寝ている時に、夢を見た。今日は、それを書こうと思っていた。それを書こうと思っていたが、同時に、

        • 並行書簡-43

           今朝も起きたら雄馬から新しい並行書簡が届いていて、読んだらいい具合に意味がわからなくて私は安心と不安とどちらでもない、どちらでもある、よおわからん気持ちになって、おそらくこの文を読んでいる読者と同じ気持ちになった。「ーーっつうことで、合ってるかな、読書さん?」と聞かれても、困るかな、とも思うし、「ははは。」と笑っている顔もある。いろんな人がいるのは、いろんな感想や、考え方があるからだ。私はそれを選ぶことも選ばないこともできる。私は“選ぶ”とか“選ばない”ということをこうして

        並行書簡-48

          並行書簡-41

           もう四十一回か。今日は、少し、顕在的なところを書いてみようかと思っているが、どうなるだろうか。私は早速、“顕在”への不信が顕(あらわ)になっているのを目撃している。  昨日は、四月二十五日だった。パートナーと、茅ヶ崎のとあるカフェに行き、ある人物に会った。“会いに行った”というつもりはないが、その可能性はある。いつも、ここぞというところでふらっとそのカフェに行くと、必ず会う人物だ。彼女は、おーちゃん、という愛称で親しまれている。整体や鍼治療をやり、経営コンサルタントと、心理

          並行書簡-41

          並行書簡-39

           雄馬が、まだ寝ている。私は今朝8時に起きて、今日の夜中の2時頃に来ていた、短歌のLINEに、返信した。「わかった。わかった。わかったから、“並行”しなさい。」私はそう書くべきだったのか? いや、せっかく、短歌を送ってくれたのだ。そんな言い方は、するものじゃないだろう。私は、そう思い、私の方こそ、“眠る”ことにしたのだろう。それで私は、この執筆を通して、“起きる”ことにしたのかもしれない。私は、私を通って何が出てくるのかを、見たい。知りたい。体験したい。だから、雄馬、早く、“

          並行書簡-39

          並行書簡-38

           雄馬が、やってくれた。この文は、二通りの解釈が可能だ。「あの野郎、やりやがったな、こんちきしょう。」か、「よくぞやってくれた。」だ。  前者は、マイナスイメージのつもりで私は書いたが、よく見てみると、プラスにも取れる気がしてくる。「あの野郎、やりやがったな、こんちきしょう。あいつは、昔から、あーなんだ。ここぞというところでは、必ず、キチッと決めるやつなんだ。」である。  そうすると、彼が、満塁ホームランを決め、ベンチでは「あの野郎ーー」の声が上がり、一周ぐるりと回ってきた彼

          並行書簡-38

          並行書簡-36

           私は今、昼の十二時十六分に、足湯用のバケツに湯を入れ(そういうものがある)、足湯をしながら、「今日は状況を変えてみよう。」と思い付き、それを行動に移して、これを書いている。  十一時頃、目が覚め、なんとなく、書く気がしないような気がしていた。「今日は書かないのかな。」「少し、間を空けるタイミングかな。」ーーそんなことを、漠然と、思っているような気がしていた。私は、私の様子を探っていた。  「私の様子」の「私」は、おそらく、一人ではなさそうなことが、こうして書くことによって浮

          並行書簡-36

          並行書簡-33

           昼の十二時五十分に、これを書き始めている。今朝、雄馬からのLINEで、「メッセージの送信を取り消しました」の後に、「なぎゃい!ちょっと削ります」とあった。私はそれを確認し、返信はしていない。返信をしていない私の気持ちは、確定されていない。「そうかそうか、待ちますよ。」か、「ちぇっ、まだかよ。」か、どれでもないか、どれでもあるか、その他か。  書いてみないと、「私の気持ちは、確定されていない」ということに、気付けない。ひっくり返せば、書けば、気付ける。私が、執筆をおもしろいと

          並行書簡-33

          並行書簡-32

           私は今朝は七時三十分頃に起き、オーディオを処分した。その他に、押入れにしまってあった、いくつかのものも、まとめて処分した。引っ越す気はないが、“いつでも引っ越しできる”という状態に近付いた。  ものを減らすと、そこに空間ができる。順序としては、空間があった、もしくは、あるから、そこにものを置けた。しばらく、そこに放置されていた。単なる「放置」ではなく、活用すべくそこに置かれ、次第に、いつのまにやら、「放置」になった。  ふと、気付く瞬間が訪れるーー「捨てよう。」ーーこれは、

          並行書簡-32

          並行書簡-30

           手が空くと、書きたくなる。数日前、雄馬が“並行”の筆を再び取り始めた日の夜に、私は、その日の二つ目の記事の執筆に取り掛かったものの、どうにも、途中で進まなくなり、消した、ということがあった。「今は、雄馬がやってるから、私は“お預け”かな。」と思い、その時は、受け入れた。渋々、であったような気もする。  今は、やっぱり、書いてもいい気が、している。私に、ではなく、私たちに、“ディクテーション”をさせてくれている者たちだって、成長する。ならば、以前は対応できずに、私に、「ぁ、ち

          並行書簡-30

          並行書簡-29

            雄馬が、実に、調子がいい。「調子に乗っている」というのは冗談だが、そういう冗談をサラッと私が書けるのは、雄馬の調子がいいからだ。  雄馬は今、地球になっている。それは、私がそう思ったからだ。「私がそう思った。」という言語化がなされる以前の“感覚”として、私はそう思った。これは、“正しい”か“正しくない”かの、二者択一で片方を選んだ結果の“正しい”ではなく、“正しい”も“正しくない”もヘッタクレもないところでの、〈正しい〉だ。無理矢理言語化して〈正しい〉などと書いているが、

          並行書簡-29

          並行書簡-27

           この『お裾分け』は、間違いなく、『並行書簡』だ。だから私はリンクを並べた。  読んでいる最中に、私は、自分で書いた文章を読んでいるつもりで読んでいることに気付いた。それで、「ぁ、違った、これ、雄馬さんが書いたんだった。」とも思わなかった。私は、途中まで、自分が書いた文章を読むのと同じ調子で読み、「ぁ、そう読んでるなぁ。」と気付き、そのまま読み終えた。“訂正”は起こらなかった。それで、「これは『並行書簡』だ。」とか、「これは『並行書簡』じゃないか。」とか、「んったくもう、ちゃ

          並行書簡-27

          並行書簡-25

           やっと、雄馬が“並行”したぞ。私は、これを待っていたことに、気付いていなかったが、雄馬の投稿を読み、嬉しく思い、待っていたことに気付いた。私は、私の感情や、感覚を、見てからでないと、私が何を考えているのか、感じているのか、わからないのかもしれない。  前回か、その前か、私は、“感覚”に、ちょっとだけ言及して、取り下げた。 【引用始め】  流れてくる思考、感情、感覚…いや、“感覚”はどうやら、分けて、今は除いておいた方がよさそうだ。そんな気がする。もう一度仕切り直そう。  

          並行書簡-25

          並行書簡-23

           またしても、夕飯を食べ、片付け、横になって、ドラゴンクエストをやるつもりでスマホを持ったら、この画面を開いて、執筆を始めている。昨日と同じかと思ったら、一昨日だった。しかし全く同じではなく、今日は、少し、予感があった。「今日もそうなるのかな。」である。  そうは言っても、実際に私が書くかどうかは、実際に横になってスマホを持ち、画面の操作をするまでは、わからない。先程の第二十二回で言った通り、私は、私の意思決定のほぼ全てを、「他人任せ」にしている。だから、私の行動を、私が事前

          並行書簡-23

          並行書簡-22

           習慣だから書いています、とも言えるが私はそもそもなぜ毎日のように、そして今日もこうして書いているのかと言えば、私は「“経過”を見るためだ。」という説明が思い付く。では、なんの“経過”なのか、といえば、“時間”かな、“状態”かな、とアレコレ浮かぶよりも早くに、“全体”という語が浮かぶ。私は、“全体”の“経過”を見たくてこれを書いているらしい。  私は直前の文末の「らしい」を入力しながら、「ほう?」と思った。「そこ、伝聞形なんや?」である。  私は、私が何を考えているのか、ある

          並行書簡-22