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11 日記-2【日記、2400字】

 日記ならいくらでも書けると思って書いている。言葉ならいくらでもあるから書ける、ということなのかもしれないが、私は調子がよい時ほど言葉が出てこない、あるいは浮かばない、という気もしていて、調子が悪い、とまで言ったらオオゲサかもしれないが、頭の中でさまざまな言葉が渦巻いている時は、やはり「調子が悪い」という言い方で正しかったと思う。
 今日の書き方は慎重だな、と自分で思う。一つの段落が短い。あるいは、一般的だ。昨日千八百字を一息に、一つの段落で書き切って、混雑していたのがスッキリしたのかもしれない。どちらかというと、プラスの印象がある。昨日は言葉が溢れかえっていて、選ぶ余裕がなかったとも言えるが、今日のこの執筆は、吐き出したいことが特にない。選ぶ余裕もある。「それは、頭で考えている、ということでは?」というイジワルを思い付いてわざわざ書いて遊ぶことも出来る。これは、調子がいい。
 調子がいいと、いいことずくめかというと、そうでもないと思っている。確信は、実はないのだが、とりあえず、いいことずくめでもないよ、という方向で書いてみようかな、と遊んでみる。私は、調子がいいからだ。
 調子がいいと、書く必要がない。書く、ということが、意識にのぼらない。「ぁ、書いてねぇな。」という形で意識にのぼることもあるにはあるが、すぐに過ぎ去る。そして書かない。まず、そういった、「書かない」と表裏一体の「調子がいい」が、ある。
 そして、もう一つ、ある、という説を唱えてみる。遊んでいることが感じられる。ビビっているのだろうか。「これが私の意見なんだぁ!」と、言ってしまえばいいではないか。キツモンしているような口調だが、これを入力する男は、いたってしらけた…いや、違う。「しらけた表情をしている」と書こうとしていた気がするが、入力と聞き取り、それとたぶん翻訳、このあたりの作業に集中、といってもそれはリラックスの別名でもあるような集中をしていて、その結果の無表情、ないし真顔なのだと思う。しらけてはいない。熱してもいない。どちらかというと、両方というか、「しらける」と「熱している」が別々のものとして分かれていない。分かれていたら、書けない。分かれていないから、分けることが出来る。すなわち、書くことが出来る。
 調子がいいと言葉が鳴らずに静かに暮らせるが、それは分かれていない、あるいは、完全ではないにせよ、その「分かれ度合い」とでもいうようなものが、非常に低く済んでいる。この「分かれ度合い」が高いと、素朴な実感として、しんどい。私は一人、私は一人、私は一人…である。
 「…である」などといってこの男はそれで説明した気になっている。というか、さすがにこれが説明として成立しているとは、思っていないと思う。それにも関わらず、「…である」で済ませた。こういう態度こそが、「『分かれ度合い』とでもいうようなものが、非常に低く済んでいる」ということなんじゃないかと思う。思うがしかし、絶対にそうじゃないと困るかと言えば、全く困らない。違ったら違ったで、「おぃ、ケンケン。それ、ちゃうで。」と指摘してくれる方の話を、私は、聞きたい。私は私で、「あぁ、せやなぁ。」と言ったり思ったりするかもしれないし、「それはあんさんがちゃうんとちゃうん?」と思ったり言ったりするかもしれない。私は、べつに、わざとというつもりはないのだが、どちらかいうと、これは本当に、「どちらかというと」なのだが、どちらかというと、もしかしたら、なるべく反論や疑問が生じやすいように書いているようなところも、なくはないのかもしれない。目に余るほどの周りくどさですまないが、あくまでも、「そんな気がする」という話だ。なんの話だったかはともかく、私はこうしてもとは言葉でなかったものを、言葉に翻訳して、今、ここに書き付けている。翻訳に「絶対」はあるのだろうか。私は、あると言いたくなる時もあるかもしれないが、どちらかというと、基本的には、ないのかなぁ、と今は思っていると思う。だから、とりあえず、私は私なりの翻訳をするので、なんか、気になるとこあったら教えてね? くらいの感じで遊んでいる気がする。私はもう、一人でも一人じゃなくてもどっちでもよくなっている。「よくそんなこと気にすることが出来るな。」と、さすがにひどすぎるかもしれない言い草を思い付いてしまい、書いてしまった。他人のことなら、さすがに、書けない。名前を伏せたとしても、私は書けないし、書かない。でも私は、今、あっさり書いた。そう思っていた自分もまた自分である、と思っているから書けたのだろう。ということは、すでに考え方が変わってしまって、その時の私に今の私が共感できなくても、どっちも私であると、私は思っているということだ。これは、いろいろな時点に、いろいろな考え方をするいろいろな私、つまり「複数の私がいる」と言える。一方、全部ひっくるめて「一人の私」とも言える。私はどちらの方がしっくりくるかというと、どっちでもいい。あまりにも、と言いたくなるほど、あまりにもどっちでもいい。しかし興味はあった。だから書いた。「あぁ、私は、『どっちでもいい』を書いて確認したかったのね。」である。
 さて、そろそろ終わります。今回もお読みいただき、誠にありがとうございました。最初の方は段落を細かく分けて、慎重に、と自分でも言いながら書いていましたが、この段落の一つ前の段落は、とても長いですね。何がどうなって、そうなったのですかね。まだ、今回は、一筆書き的な書き方で書いておりまして、つまりは一度も読み直していないので、とりあえずここで書き終えてから、読んでみて、検証したり、しなかったりを、楽しみたいと思います。
 では、また。

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