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13 日記-4【日記、2900字】

 孤独、孤高、孤立…これらに用いられる〈孤〉から〈弧〉が浮かび、彼らがみな「円の一部」であるような気がしている。“コ” という音を持つ一字の漢字を含む語を挙げる。〈個〉人、自〈己〉、が浮かぶ。私にとって共通性が感じられるものを、その共通性に釣られて挙げている、ということもあると思うが、今は措く。個人なり、自己なりは、「円の一部」かもしれない。私は、〈円〉から、「ご縁がある」の〈縁〉が浮かぶ。そこから、「延びる」の〈延〉が浮かぶ。連想である。繋がり、もしくは、流れを感じるから、連想が出来る。もしくは、起こる。私は、流れを、どうやって感じているのだろう。流れが、私の一部なのか、全部なのか、そもそも全くの別のものなのか、わからない、気がする。全くわからない、というわけでもない気配もある。わからないという方向にも、わかるという方向にも、行ける気もするし、「行ける」とか「行けない」とかが、そもそも作られたものだったり、作っているものだったり、という気もする。私はついに、主語を抜いた、ということに気が付いた。誰もしくは何によって作られたのか、あるいは、誰もしくは何が作ったのか、を書かなかった。私は、一連の文章の流れからして、必然だと思う。主語は、ない。もしくは、あるということで書くならば、それは、全部、である。主語は「ない」、もしくは、「全部」である。説明する、という選択もあるだろうが、気乗りしない。なきゃ、そりゃ全部だからだ。口調が荒れてきた。本音、といってもそれ以前がべつにウソだったというわけではないが、「もうこれ以上は遡れませんよ!」という、「本音の底」もしくは、「本音の先端」まで来た、ということだ。つまり、私は、「底」でも「先端」でもどっちでもいい、つまり、「言い方が違うだけで、言ってること一緒じゃん。」と思っているのだと思う。これは、「だから書ける」にも「だから書かない」にもなりうる。私はそれを「危険だ」と思うし、「おもしろい」とも思う。そう考える私のことを私は「お前のそういうところが危険なんだよ。」とたしなめながら、「お前のそういうとこホントおもしろい。」とも思える。この「思える」は、「思っても思わなくても、どっちでもいい」である。

 私はここまでを断章や断片、つまり「ちょっと長めのメモ」くらいのつもりで書き始めた。そしたら、九百字を超え、結局、アスタリスク[*]を打って、千字を超えて現在こうして続けている。私はさきほど「流れ」について書いたのを、今、「千字を超えて現在こうして続けている。」あたりを入力しながら、なんとなく、思い出していた。こういうのも、「連想」なのだろうか。私は、入力しているのは私の、もしくは、小曽根賢の肉体だが、それに入力させている、「指示や操作をしている」とでも言えばいいのだろうか。その指示や操作をしているのは、「流れ」なんじゃないかな、という気がする。私は、直感的に、この「流れ」は、「ない」であり、「全部」である気がする。そして、私は、どうやっても、「気がする」とまでしか言えない気がする。なぜ断言できない、もしくはしないのか、わからないが、どうも、できなかったり、しなかったりする。私は、決める、ということについて、納得していないのかもしれない。
 私は日常生活において、例えばレストランで何を注文するか、真剣に考えはするが、だらだらと迷うことは、ほとんどない。たまにあるかもしれないが、基本的には、ない。ものを捨てられず、使わないもので自宅が溢れる、ということもない。処分することや、そもそも買わないという選択に、迷いがない。そう考えると、場面、ないし、文脈によっては、この人は、平然と、カチッと、決める。しかも、この人は、一度決めたら、テコでも動かないところもあり、かつ、素敵な人に素敵なことを言われて「うわぁ、それいい! いい、いい、いい、めちゃいい! じゃあオレも今日からその考え方するぅ。」と言って、もしくは歌って、あっさり信念を変更する。そう書くと、そもそもそれは「信念」でもなんでもなかった気もする。

 私は、今日はアスタリスクを用いて、前半・後半の二部構成で書いてみた、あるいは、書かれたが、私はどうも、一部も二部も、なんなら、今日も昨日も一昨日も、だいたいのところで、同じことか、控えめに言っても、酷似したことを言っていると思うーーというこの段落は、「同じことばっかり書いてちゃいけない」という信念を破ってしまった、その言い訳として書かれたと思う。しかし今この文を書いている私は、「まぁ、でも、結局さ、このあたりまで来たら、もう、どーやったって、一緒じゃない?」と思って、誰かをなぐさめている雰囲気を感じる。「お前は悪くねえよ。てか、誰も悪くねえんだよ。こればっかりは、絶対、しょうがねえよ。」である。私には、「悲観」と「楽観」が見える。見えるだけ見えて、ただ、見えるだけである。私はそう書きながら、肉体の顔に付いてる眼球のことを「目」というが、それは比喩であって、この文章を書いている存在が、その比喩の元としての目なんじゃないかーーとも思ったが、ハッキリ言って、書いてるそばから、どっちでもいい。
 私は長いこと、ずうっとそのような感覚でこれまで生きていたような気がするが、同時に、後付けの可能性も感じている。いや、後付けの可能性の「存在も」感じている、という方が近いかもしれない。「存在も」という、ワンクッションを入れたい。「可能性」と「私」の間にキョリを感じるので、その表現としてのワンクッションだ。しかし、たとえワンクッションがあるにせよ、その「可能性」を感じるということは、「私」と全くの無関係ではない、ということだ。「私」は、「私」でもありうるし、「私以外」でもありうる。言葉で言い当てようとする限り、この「言い当てようとする」は際限なく、つまり無限に続くと思う。元が、無限だからだ。言葉にしなけりゃ、なんにもない。「なんにもない」は、無限だ。なんにもないから、なんでも言える。もう、何度目の確認だろう。
 私はいつか、「こういうのって、変なのかな?」とも、「オレ以外の人はこう考えないけど、オレ以外みんな変なのかな?」とも思っていた。今は、どちらも、「ワンクッション」付きで眺めようと思えばいつでも眺められる、という関係性になり、べつに、ありありとした実感、というものはない。「そう考えていた」と、過去形で語れる。同時に、今、そう考えてもべつにいいとも思っている。やるかやらないかは、べつかもしれないが。
 私は、身動きが取れるのか取れないのか、全くわからないし、そう書くそばから、この「わからない」こそが、ある種の正解なんじゃないか、と思うが、「ある種の」という断り書きを付けたにも関わらず、「正解」という表現に対する強い違和感があった。私は、「違和感」と「信念」を国語辞典で引いてみるとおそらくそれぞれ異なる説明が記述されていると思うが、それは、ある意味では、当たり前であり、ある意味では、すごいことだと思う。

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