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20 佳境【日記、2700字】

 昨日は昼にパートナーと非常においしいイタリアンをゆっくりと堪能した。私たちは、食べる時は発言しない。聞いているからだ。食べる時は、料理だけかどうかはわからないが、料理を聞いている。聞き役に徹して、自らしゃべることをしない。二人で会話をして、といってもその「二人」の範囲が私にはわからないが、やむを得ずそう表現するならば、「二人で会話をして」、料理が出てくると黙々とそれを食べ、聞き、一皿目を食べ終わると「二人で会話をして」、二皿目が来るとまた黙々と…をその都度繰り返し、何皿か食べたり聞いたりして、食後のコーヒーを飲んで店を後にした。
 私は今まさにこのように執筆をしている時にも、パートナーや、パートナーに限らず誰かとどこかで会話をするにしても、私は私の発言や、聞き方・受け取り方が、当事者ということになっている一人の人間、二人なら二人の人間によってのみ行われていると思っていたが、こうしていざそれを書きつけてみると、違和感が立ち上がり、現にこうして「いやぁ、なんか変だ。変だよやっぱり。」ということを書かずにはおれなくなり、実際に今そう書いている。こうして書かれているこの言葉や、言葉に訳される以前の感触は、どうも、私一人の所有物とは思えない。
 今、私の体は室内にあり、外では雨が降っている。外に出ると、おそらく、雨粒が体に当たる。その雨粒を、「これは、私の雨粒だわ。」と、私は思わないと思うし、そして、その感覚は、自分で言うのはなんですが、ハッキリ言って、まともだと思う。私は、それと同様に、なぜかわからないが私が発言したり書いたりするにいたった、すなわち言葉に翻訳するにいたった言葉以前の感触が、「これは、私のものだわ。」と言っていいのかどうか、わからない。「言うのは絶対に変だ。」と断言するような気がしていたが、しなかった。ということは、言っても、言わなくても、どちらでもいい、ということなのだと思う。「私のーー」の、「私」の解釈によるのだ。
 私は、便宜上二つに分けて書かせてもらうと、「私」には二つの解釈があると思う。一つは、他と切り離され、孤立した、一人の人。「人」と「人間」の違いも気になるが、いや、今書いてしまおう。「今は措く」としそうだったが、やっぱり、措かないで書く。
 「人間」という語は、「人」と「人」の「間」を流れている何かを前提としている。その「何か」は、「流れ」と呼びましょう。私は、「人」と「人間」を、すっぱり分けることが出来ない気がしている。
 流れている想念を感知し、「私は、こう思うな。」ということを、書いたり、言ったりする。私は、あえて、「所有」という概念で考えるなら、この「流れている想念」は、みんなのもの、ではないか。でも、やっぱり、「所有」で考えること自体がどうにも変な気がするので、そうすると、やっぱり、誰のものでもないんじゃないか。
 誰のものでもない「流れ」が、ある時、ある瞬間に、どこかの空間において、言葉に翻訳される。つまり、書かれたり、話されたりする。言葉ではなく、音楽として鳴ることもあれば、絵として描かれることもある。しかし書いてみて気付いたが、これは順番が逆だ。鳴った後でそれは音楽と呼ばれたり、絵と呼ばれたり、小説とかエッセイとか呼ばれたり、日常会話と呼ばれたりして、要は、後付けされる。
 私は「はじめに言葉ありき」という言葉を思い出したが、私は、なんとなく、「はじめに言葉じゃない何かありき」のような気もしている。「(気)も(している)」なので、「はじめに言葉じゃない何かありき」の方が、唯一にして絶対の正解というわけではない、ということだ。「はじめに言葉ありき」という考え方も可能だし、「はじめに言葉じゃない何かありき」という考え方も可能だ。言葉で記述する限り、必ずそうなるんだろう。
 私は、「ニワトリが先か、タマゴが先か」という言い方があるが、そもそもニワトリだか、タマゴだか、あるいは、両方を作り出したものがいるか、あるか、していると思う。人かどうかわからないので、「いるか、あるか」という周りくどい表現をした。仕方がないのだ。なぜなら、割り切れない。さっき書いた表現を引用するなら、「すっぱり分けることが出来ない気がしている」。
 「ニワトリだか、タマゴだか、あるいは、両方を作り出したもの」を創造主と呼ばせてもらいます。私が、そう設定しましたーーという文における「私」には、一個人としての筆者(社会生活の都合上、「小曽根賢」と呼ばれています。)と、創造主自身が含まれていないと、おかしい。創造主は、あらゆる設定を作り出す。その能力あるいは機能が、あらゆる個人に搭載されている。だから、あらゆる個人が、任意の設定を作り出すことが出来る。「創造主がいたりあったりするという設定で行きましょう。」と、すんなりと設定できるのは、その者に、創造主としての機能が搭載されているからだ。だから、「私」という語は、「(一個人というものが存在するという設定における)一個人」であり、かつ、「(創造主がいたりあったりするという設定における)創造主」でもあり、その両者が、ごちゃ混ぜになっている。なっているがしかし、こと日常会話においては、さも、前者の「一個人」だけの意味のように使うことが出来るし、実際に、多くの者が、そうしていると思う。なぜ後者を無視して、前者だけの使い方で平然と暮らしていけるかというと…と書いている途中で、もう、気付いてしまったが、「平然と」なんか、暮らせていないんじゃないか?
 「私」という語を「一個人」としてのみ解釈するということは、「『私』はいつも一人ぼっちなの。」ということのような気がするが、飛躍だろうか。私は、「私」という語を、「一個人」の意味だけで使う、ということの無理が、もう、とっくに、といっても具体的にいつからかはわからないが、もうとっくに顕在化していると思う。「創造主」という語を持ち出してしまうと、なんとなく仰々しいとか、おこがましいとか、そういう気がしてしまうのは私も充分に理解できるつもりではあるが、それでもなんでも、素朴な事実として、「『一個人』と『創造主』は、すっぱりとは分けられないんだよ。」「みんな、『一個人』で『一人ぼっち』であると同時に、みんな、『創造主』でもあるんだよ。」ということを、いい加減、認めざるを得ないところに来ていると、私は思っている。私は、それは、一言で言うと、「ゲームが熱くなってきた」ということだと思っている。

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