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10 日記【日記、1800字】

 一日が長いのか短いのかわからないし「一日」と言葉であっさり区切ってみても、その区切りをどうやって、なんでやっているのかもわからない。「渦中にいる」と「ハタから眺める」を行ったり来たりしているような気がして書いてみると、書いたそばから眺めてしまって「ハタから眺める」だけになってしまう…と書いている途中から、「『ハタから眺める』の『渦中にいる』」ような気がしてしまって手に負えない、ということをいたって冷静に書きつけることが出来ているのは、充分に手に負えてるんじゃないか。ここまで書いて、アタマがサッパリしていることに気付いた。「気付いた」は過去形だか、完了系だか、だろう。渦中にいたところでそれを眺めてこうして文字にして書いてしまうとそれはあっさり過去になる。「そんなこともあったね。」である。「そんなこともあったね。」ということ自体が、人生の中で何度もある。同じことの繰り返しであり、その都度その都度の新しい経験でもある。ほら決められない。「ほら」は、最初からわかっていた者の言い草だ。やっぱりオレ、わかってたんだな。わかってて、やってやがるな。なんで、時々、わからないふりするんだろう。やめてほしい、と思って書いてみたけど、いまいち、それを入力する右手の親指に、気がこもっていない。おしゃべりで言うところの、「口だけ」というやつかもしれない。「ちょっとお、やめてよー。」と意味的には拒絶のはずが、顔の表情は笑っている、そういうのと同じか、同じではないにしても、近いものを感じる。「やめてほしい」と流れでうっかり書いてしまっただけで、それほどは、実は、やめてほしいと思っていないのかもしれない。「『かもしれない』なのか、ほう。」と思ったが、それも、決めない。ほう。「決めない」と完全に決めてきたか、ほう。あんまり決めないでいると、決めないでいるお前に、飽きてくる。「お前」とまで言い出した。もう、「過去」すら通り越して、他人じゃないか。「『過去』すら」と言うからには、この男は、「『過去』は『過去の自分』であり、それすら通り越して他人」と言おうとしたんだろうな。もう、他人の言うことだから、さっきから「かもしれない」「かもしれない」「かもしれない」と、推量ばかりなんだろう。私はもう、私が誰でもなんでもどれでもよくなっている。そう書きながら感じるのは、「私が誰でもなんでもどれでもよくなっている」時が、私は一番気持ちがいい、のかもしれない。文末の「のかもしれない」は、その文を書き始めた当初は、そんなつもりはなかった。ピシッと断言して、ピシッと終わるつもりだった。しかし書きながら変わって、結局、推量に「した」と「なった」の両方だ。うわ、また決められない。さすがに、引き始めている。読者もだろ? 「読者もだろ?」は、書き手が書き手一人で書くことに飽き始めた兆候かもしれない。じゃあやめろよ、ということも浮かぶが、その浮かんだアイデア(なのか?)を「これが、オレのアイデアなんだあああ!」という、気持ちに、なんだか、ならない。こんなに煮え切らないでいることが出来るもんなのか、と感心している。これは「よく眺められている」とプラスイメージで語ることも出来るし、「『渦中ごっこ』に飽きたんだろ?」と皮肉っぽく、つまりマイナスイメージで語ることも出来る。じゃあどうする? 私は、どうもしない。なぜなら…指が止まった。私の知る限り、どうもしないことに、理由は、ない。何かをするにはそれをする理由、例えば「好きだから」とか「やりたいから」とか、何かしらあるだろうが、しないことに、理由など、ないんじゃないか。どうしてもそれをやらせようとしてくる人(おせっかいおばさん、などを想像してはいかがでしょうか。)を納得させたりあきらめさせたりするための口実ならあるかもしれないが、それは、私がさっき言った、「理由」とは、ちょっと違う。説明はしないので、なんとなくで読んでほしい。「違うっしょ?」「あぁせやねえ。」くらいが望ましい。何もしないのに理由はない。それが納得できれば、私は、そしてたぶんあなたも、何もしないでいられる。もしかしたら、飛躍かもしれないが、思い付いたから書くが、これは、どんなことでも息をするようにそれが出来るようになる、ということかもしれない。とりあえず、私は、息をするように、どころか、実際に、息をしながらこの文章を書いた。1800字、ほぼノンストップ、楽しかったです。では、また。

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