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21 坂口恭平『土になる』(読書録、2900字)

 坂口恭平さんの『土になる』がおもしろい。坂口さんが二〇二〇年四月に畑を始めて、約一ヵ月が経過したところから始まる日記だ。昨日読み始めて、二・三時間かけて約四〇ページ読んだ。もともと私は本を読むスピードはかなり遅い方だと思うが、この本を読むのは輪をかけて遅いと思う。風景の描写が多い…と言い切ることも出来ず、風景と思考と人物が切り離されていない。初夏の午前中の浜辺で潮の香りと風と光と温かさと波の音と心地よさと子供たちのはしゃぐ声を明確に区別するのが難しいのと同じ意味で、坂口さんを通って出てくる風景・思考・人物が区別し難い。

僕はこれまで徹底して自分のペースで動こうとしてきたが、そうではなくなった。植物の時間に合わせるようになったというよりも、土だ。土の時間に合わせているわけでもない。そうではなく、土のことを考えて、お互い時間を合わせたような感覚に近い。待ち合わせして、一緒に何かをする。僕はようやく土の存在に気づき、声をかけた。僕はペースが乱れたり環境が変わったりするとすぐに鬱になるのだが、不思議と今回は体の調子がいい。むしろ本来の時間が戻ってきたと感じている。経験していないことなのに、初めてではないと何か感じている。何か、としか言えないが、わからないわけではない。僕はわかっている。知っている。土は僕に時間を調整するように、乾いた畝の表面で伝えてきた。僕はそれを感じたからヒダカさん[坂口さんの畑の師匠:引用者注]に聞いた。ヒダカさんはいつも一言だけ新しいことを教えてくれる。

坂口恭平『土になる』、8〜9ページ

 私は朝起きて布団から出て、どこからが一日の始まりなのかはわからないが、数分してなんとなく意識が起きてくると、その日の体調を感じる。本当は、目が覚めた瞬間にはもう感じているのかもしれない。数分経つと感じていることに気付き始める。私からわかりに行くわけでも、体から積極的に教えてくれるわけでも、どちらでもないようなどちらでもあるような感じだ。そうやって「私」と「体」がうまいこと馴染んできたあたりで「一日の始まり」を感じているのかもしれない。
 私は今朝六時過ぎに起きて、太白胡麻油でうがいをしてから歯を磨き始めた頃に、仙骨がいつになく、元気いっぱいに立ち上がっているのを感じた。通常は「(仙骨が)立つ」もしくは「立っている」と言うのだろうが、私はその後ろに「(立ち)上がっている」を付けて、仙骨それ自体が一つの独立した生命として「元気いっぱいに」下から上に向かって動いているように感じられた。そういうみなぎり方をしている。

 土の中では多様な要素がただひしめいているだけではない。かといってそれらを取りまとめる統一された秩序があるわけでもない。植物、虫、微生物、人間とくっきり区別されていない。それぞれが自由気ままに生きて死んでいく。その過程で、意図しない相互作用が至るところで起きる。生へと向かう力が途切れることなく交差していく。これが土ってことだ。そして、それこそが創造なのではないかと僕は思った。

同、25ページ

 それを言う坂口さんのこの文章が、実際にそのように書かれている。私は料理が上達するというのは、料理とそれをする人との間の境界線が薄まることだと思っているが(おそらくなんのジャンルでもそうだろう。)、私は料理の上達が嬉しかったり楽しかったりするのと同じ意味で、この本を読むのが楽しい。坂口さんを通って出てきた言葉の向こうに、坂口さんを通る以前の何かを感じる。

経験していないことなのに、初めてではないと何か感じている。何か、としか言えないが、わからないわけではない。僕はわかっている。知っている。

同、9ページ

 坂口さんが、以前、YouTube で誰かと対談していた際に言っていた一言が、私は印象的だった。話の流れはすっかり忘れたが、こう言っていた。

「僕の体を確立したものとして考えるならーー」

 明らかに、「確立されていない」、すなわち、一見別の存在のようでも目に見えないところでは繋がっていたり、そもそも別ではないことを日常的に感じていなければ、こういう言葉をサラッと言うことは出来ないだろう。

 畑を始めたばかりの頃は、まだ土と野菜と僕が一体化しておらず、距離があった。それは当然だが、これはいつどんな時でもそうだ。パステルだって使い始めの頃は、紙に押し付けると出てくる顔料の粉をうまく扱えない。少しずつその粉も計算に入れて、色を作れるようになった。料理にも似ている。料理で大事なのは、塩の分量を頭に入れておくことだ。素材につける下味としての塩、火にかけてまぶす時の塩、醤油に入っている塩分、水を飛ばしたあとに残る塩、慣れてその塩加減がわかってくると楽しい。パステルも今は慣れて、色がうまく出せている。今日の青色はうまく行った。知らない町でふと目に映る青空があらわせたような気がする。

同、34〜35ページ

 「知らない町」に行った経験は、坂口さんだって誰だって、もちろん私も、いくらでもある。でも、「知らない町でふと目に映る青空があらわせたような気がする。」を読んで、「ぇ、『知らない町』じゃわかんないよ、具体的に、どこの町?」と聞き返す人は、いないんじゃないか。
 坂口さんが、あるイメージ、もしくはイメージですらない何かを「知らない町」と表現した。意味的には、どこの町か、わからない。いろんな町の、いろんな瞬間に、いろんな青空がある。そのうちの、どの青空のことなのか、誰もそんなこと気にしない。「知らない町でふと目に映る青空」という言葉になる以前の「あるイメージ、もしくはイメージですらない何か」を受け取っているからだ。

 ある日、坂口さんはそれまで夕方にだけ畑に行っていたが、朝にも行くようになった。

 今日は、初めて朝起きて、すぐ畑に向かってみた。もちろん、昨日、ヒダカさんから「朝、メロンの花が思い切り咲いてた」と話を聞いたからだ。ヒダカさんは一体、1日に何回畑に向かってるんだろう。車で河内方面に向かう。朝の空気が気持ちいい。いくつかの何かを思い出す。それが何かはよくわからない。ランダムに思い出すものがある。どれも形を持たずに、風と一緒に車の窓の向こうに飛ばされていく。僕も別に追いかけようとはしない。そういうものがあるというだけで安心できる。

同、27ページ

 私はここ十年近く、活字の本を読む習慣がなかった。以前は一年に百冊近く読んでいた時期もあったが、飽きたということなのか、いつのまにか読まなくなっていた。読んでも数冊で、あとは漫画だ。
 しかしなぜかしら、それこそ「ふと」この本を手に取り、読み始めた。よく、「読書をすると頭が良くなる」と言うが、私は、頭なんか別に良くならなくてもいいから、この本みたいに、読むと体が変わる本なら、これからまたたくさん読書をするかもしれないな、と思う。しかしそれは一概に本のせいだけとは言えず、読み手、つまり私の姿勢や考え方の問題でもあると思う。私自身がそういう本を求めたから、そういう本、つまり「読むと体が変わる本」が私のところに来たんじゃないか。
 私は坂口恭平さんの『土になる』を読み、私の体が本来の姿に戻っていくのを感じている。

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