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14 日記-5【日記、1500字】

 私はこれを書き始める前に英語の“realize” を調べたくなって調べた。「調べたくなって」、その後に、「調べた」、ということなのだろうが、この表現は、「時間は、存在します。」という信念のもとに書かれている。「時間は、存在します。」は、「あの時間と、この時間は、別です。」だろうと思う。別だという前提があるから、「同時に」という表現が可能になるのだと思う。私もよく使う。
 “realize” には、英英辞典を引いてみると、いくつかの語義が紹介されていた。例えばそれが三つの語義に分かれて、もしくは分けられていたとするなら、それは、「この三つは、別です。」ということだろう。そしてそれらは、全て“realize” という一語でもある。私は、「なんで別なんだ?」とも思うが、紹介文たちを読んでいると、「あぁ、別だな。」とも、「同じだな。」とも思える。これは、「別とすることも出来るし、同じ、あるいは、同じもヘッタクレもなく一つだ。」である。
 どうやっても、あるいは、どうもしなくても、「別である」という前提(私は、「前提」と入力しながら、「設定」と言いたくなって、丸括弧を付けたは付けたが、どうにも隠す必然が感じられず、書いた。ということは、「隠す」という可能性も見ていた。)丸括弧を消さずに、そのまま続ける。
 私は音楽家が、例えばクラシックの何かの曲をコンサートで演奏するのに備えて、入念に準備をすることについて考えたことがあり、今もこうして書いている。譜面を読み、あれこれ考えたり、感じたりするらしい。友人が言った。「美しい音楽は、譜面がパッと見て美しい。」この発言をあれこれ咀嚼する、というつもりで、ごちゃごちゃ言ってもいい。しかし私の実感は、「咀嚼する」というプラスイメージよりも、「ごちゃごちゃ言う」というマイナスイメージだ。私はこの文の書き手がそれを言うのはブーメランだと思うが、言葉を出すことは本質的にブーメランなのだから、それを言っちゃぁおしめえよ、とも思う。ブーメランを自覚していない書き手の文章を読むのは、私は、ツラかったり、ツラくなかったりする。書き手の問題というより、それを読む私の問題であるように、今これを入力している時は、そう思っている。がしかし、別の機会で誰かに「あの時あぁ書いてたねぇ。」と言われて、私はどう対応するかわからない。「たぶん、出来ないんじゃないか。」という可能性が見えたことによって、その文を書くことが出来た。この人は、出来る可能性も見ている。片方だけを見る、というのは、私の実感としては、芸当だ。名人芸、という語も浮かぶ。つまり、難しい。いや、無理。昼しか見えない人。夜しか見えない人。熱い、だけの人。冷たい、だけの人。いや、いるんだろうな。「両方しか見えない」という人がいれば、その対極、あるいは、その場に、「片方しか見えない」という人もいるだろう。その両方の人ないし可能性が見えるのが、「両方しか見えない」だからだ。そういうことを、そりゃぁ、ちょっと頭を使えば、わかったり、想像できたりする。この「ちょっと頭を使えば」が、私には、寂しかったり、よそよそしかったり、する。「あぁ、頭さえ使わなければ、オレだって、オレだってぇ……!!」である。この男は、「頭を使うオレ」を見ながら、「頭を使わないオレ」を見ている。私は、「あきらめる」という語が浮かんだ。「“あきらめる” は、“明らかにする” から来てるんだよ。」と聞いたことがある。私は夢と現実が別のものとして語られることに納得しながら、「やっぱそれ変だよ。」と思っている。

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