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23 坂口恭平『継続するコツ』『生きのびるための事務』(読書録、1500字)

 リハビリがてら、と言っても怪我も病気もしていないが、私は今日まで前回の投稿から三週間も書かずにいたので、書く練習をしてみようと思う。練習だから、手抜きでいいや、というつもりでもないが、本番として気合いを入れるわけでもない。“書く” という状態がどういうものだったか、思い出してみたいと思った。
 私は昨日、坂口恭平さんの『継続するコツ』という本を読んだ。一昨日は、同じく坂口さんが原作、道草晴子さんが漫画を描いた『生きのびるための事務』を読んだ。その二冊はたしか同時に買ったが、なぜ買ったかは覚えていない。スラスラ読んでいたので、おもしろかったのだと思う。私はつまらない本は買わないし、買って読んでつまらなかったら、読めない。だから「スラスラ読んでいた」があっさりと「おもしろかった」の理由になる。「おもしろかった」の後ろに「のだと思う」を付けて他人事のような言い方をするのは、他人事だからだ。読了し、一晩ぐっすり眠れば、その読書体験もすっかり他人事となる。
 今、『継続するコツ』に、書いてると瞬間瞬間で変わり続ける、というようなことが書いてあった気がして、引用しようと思ってパラパラとめくって探す素振りをしてみたのだが、それをやりながら実は探す気なんか全くないことを察して、すぐに本を置いた。行動(=探す)と思い(=探す気がない)の不一致を見つけたら、私はいつも思いに合わせる。不一致が悪なのではない。それは仕方ないと思う。強いて「悪」という言葉遣いのまま言うのであれば、不一致を見つけてもなお、その不一致を維持することが「悪」なのだ。しかし「悪」という言葉がそのままだとドギツイので、良くない、くらいの言い方にしておいた方が、抵抗なく自身の価値観として採用しやすいと思う。これも、不一致の修正である。
 書くという行為や状態は、自由かもしれない。「さぁ、自由に書いてみましょうか。」というセリフは、一見、それほど不自然というわけでもない。しかし、自由に書こうと言っても、絵じゃないんだ。言葉を書くとなると、一語一語並べていくより他ない。浮かぶ言葉や、言葉になる以前のアレコレの全てを書くことをもって、それを“自由に書く” と定義するのであれば、自由に書くということは、ハッキリ言って、不可能だろう。学校で教わった形式に乗っとる必要はない。しかし流れはある。流れに乗れば乗っている限り半永久的に言葉は出てくるが、それが“自由” なのかどうかは、怪しい。私は、流れがあるおかげで今もこうして書けていると思っている。私はすでに坂口さんの本と私が今こうして書いている文章との関わりを、「こうこうこのように関係してますよ。」と具体的に読者に向かって説明など出来ないが、しかし私はスラスラ書けているし、読者はスラスラ読めている。これが、流れだ。私は流れに乗って書き、坂口さんも流れ(というかあの人は激流だ)に乗って書き、そして読者は流れに乗って読んでいる。教師からも親からも習っていないはずの書き方で書かれた文章をスラスラ書いて、スラスラ読んでいる。そういう流れが、さて、どこにあるんだろう。文章の中か? それも、そうだろう。その文章は、私が書く場合は、私から出てきた。では、私一人のものか? そうなら、誰も読めないはずだ。しかし、みなさん、読めている。では、どこだ? 私はどこを書き、みなさんは、どこを読んでいるんだ? なぜ、読めるんだ? 何を、共有しているんだ?
 私は、それぞれの肉体をもってそれぞれ別の人、別の存在だと思ってもいるが、同時に、そればかりが行き過ぎると、それはそれでおかしなことにもなると思っている。

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