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12 日記-3【日記、1900字】

 朝起きて、日記を書いている。六時半に起き、歯を磨き、ゴミを出し、コーヒーを淹れ、飲み、八時ピッタリに今、書き始めている。何を書くかはわからない。わからないが、というより、どちらかというと、わからないから、書いている。わかっていたら、書かないだろう。分かれていないから、「さぁ、じゃ、分けてみましょっか。」ということで、書き始まっているのだろう。私にとって「書く」すなわち執筆は、「始める」というよりも、「始まる」という言い方の方がしっくりくる。「私が執筆を始める」か、「執筆が始まる」かの二者択一で言うならば、後者の「執筆が始まる」なのだ。主語は、「執筆」という行為、あるいは、動作だ。もしかしたら、状態、かもしれないとも思う。では、「執筆」を行うのは、誰か。少なくとも、今こうしてスマホに文字を入力しているのは、小曽根賢という人の肉体である。間違いない。この「間違いない」は、「少なくとも、これは、間違いない」である。ここからが、わからない気がする。慎重になっているのを感じる。入力をしているのは、小曽根の肉体だ。では、その「小曽根の肉体」を動かしているのは? そして彼、もしくはそれが入力している文字になっている言葉を出しているのは、なんだ? あるいは、誰だ? この問いは、「言葉を出している」主体が存在することが前提になっている。いない、という前提を採用するなら、「言葉が出てくる」となる。出てくる、もしくは、ある言葉を小曽根の肉体が入力している。私は、私を探してこれを書いている気もするが、探すのは、見つかっていないからだ。財布がどこにあるかわかっている人間は、財布を探さない。ただ単に、財布があるそこに手を伸ばして、財布を取ればいい。それは、「探す」とは、通常、言わないだろう。少なくとも、私は言わない。単に、財布を取るだけだ。私は私を探していた・いるとすれば、私は私がどこにあるのかわからないのだろう。私は私のやっていることも、「だろう」とか「かもしれない」という推量でばかり語りたがる。これは、わからなくしておきたい、ということにも思える。私なるものを一箇所に固定せず、もっといえば、霧吹きのようなイメージかもしれないような仕方で、私を拡散したいのか? 「拡散したいのだろう。」と書くと思っていたが、最終的に入力されたのは、疑問文だった。それほど、確定や固定がイヤなのかもしれない。私は、「私がいない」という自由が欲しい、もしくは確かめたいのかもしれない。それは、どこにでも、私がいたり、なれたりする、ということなのかもしれない。私は、「私がいる」も「私がいない」も、言い方が違うだけで、ホントは同じ、ということを、わからないふりをして、本当は、ただ単に、執筆がやりたいだけなのかもしれない。悪気のない、無意識レベルにおける、「わざと」なのかもしれない。文字盤を打つ親指が、力強くなっているのを感じる。私が執筆の際に、ほとんど唯一、頼りにしている感覚だ。彼が力強く同意してくれると、私も、「あぁ、そうなんだね。君は、本当に、なんでも知ってるね。いつも、どうも、ありがとう。」と思う。私は、彼に、教わりたい。この「教わりたい」は、「思い出したい」でもあると思う。しかし、何もかも思い出してしまうと、その「思い出す」を楽しめなくなってしまう。だから、この「思い出したい」には、実は、「思い出し尽くしたくはない」や「思い出しつつ忘れもしたい」なども含まれている。ほら、断言が来た。やっぱり私は、わざと、やっている。「捕まえたぞ。」という言い方ももちろん出来るが、捕まえた虫を虫カゴに入れておくのと違い、感覚だとか、記憶だとか、その手のものたちは、一度捕まえたところで、捕まえっぱなし、ということには、なかなかならない。だから私は、平気で捕まえるんだろう。「どーせ逃げるでしょ? じゃあ、どれだけ捕まえても、『捕まえる』や『追いかける』をまたいくらでも楽しめるね。」である。私はこういう、自作自演、という言い方でいいのだろうか。そう言っていいのであれば、その、自作自演の、一人でも複数人でも、どっちでもあるような「鬼ごっこ」をしている。それを私は時と場合によって「執筆」と言ったり、「生きる」と言ったりしている気がする。ぼかしてみた。「言ったりしている。」と断言してみる。同じだ。言葉が違っても、私は、言葉が違うだけのような気がしてならない。

 そんなこんなで、現在時刻は、八時三十七分でございます。みなさん、今日も良い一日をお過ごしください。お読みいただきまして、誠にありがとうございました。

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