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カフェで作業なんてできない。

ガラスに隔てられた店内には、たくさんの人が見えた。

その人たちは一様にノートPCやタブレットを広げ、その画面を食い入るように見つめていた。

みんな、なにかを創っているのだと思った。

彼らを見ていると、僕の中にとある衝動が湧く。

『僕も書きたいな』という衝動。

しかし僕はそういったカフェや喫茶店で、執筆作業をするという感覚はどうにもわからなかった。


僕は文章を書くとなると、自宅で二枚のモニターと向き合うのが常だった。

作業中に資料を参照したり、AIの反応をみたり、アウトラインを確認、修正したり。ノートPCとスマホでそういうことをするというのは、どうもやりづらさがあった。

それだけではない。

人に作業中の画面を見られるということに、抵抗があった。

僕はカラオケをしている最中、ドリンクをもってきてくれた店員さんにも警戒心を抱き、歌うのを止めて「ありがとうございます」と扉が閉まるのを静かに待つことしかできないような小心者だった。

完成したものを公開するのはいい。

けれども、頭をかかえてアイデアをひねり出したり、言葉選びを熟考して辞典をめくったりしている姿をみせるのは、ためらわれるのだった。

それにカウンターごしの視線にも、耐えられる気がしなかった。

「コーヒー一杯でいつまで居座る気だよ」と思われているんじゃないか、と気が気でなかった。

裏で『カタカタ』とどこかの都市伝説じみたあだ名をつけられているのは、想像に難くなかった。


しかし、とも思う。

僕とガラスの向こう側の『カタカタ』たちとの違いは、そこにあるのかもしれない。

僕の考えているようなことを、ものともしないようなメンタル。

あえて人の目があるところで、自分のしたいことをすることによって、そのメンタルを強化しているのかもしれなかった。

彼らにかかれば、人前どころか大勢が参加する会議中に、特大モニターに画面を写して作業ができるのかもしれなかった。

仮にもし、面と向かって「お客様、コーヒー一杯でいつまでお居座りになられるつもりでしょうか?」と尋ねられたところで「営業終了までです」と言ってしまえる器量の持ち主たちなのかもしれなかった。


だとしたら、僕もそんなメンタルがほしい、と思った。

店内で机を2つくっつけて、モニターを二枚持ち込み、辞書とノートとキーボードを悠然と展開し、ふわふわのぬいぐるみを傍らにおいて作業に勤しむことができるメンタルが。


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