たまごかけごはんの大罪。
昨日は夜遅くに帰宅した。
お腹は減ったが、なにも作る気力が湧かなかった。
しかし炊いて冷蔵しているお米があったので、それをたまごかけごはんにして、なんとか一命をとりとめることができた。
湯気をたてる白米が卵黄と本つゆをまとう。
たまごかけごはんは、とても美味しかった。
それはなんとも不思議なことである。
美味しすぎるのだ。
小ネギやかつおぶしなどを振りまこうものなら、僕が前日から手間ひまかけて漬けこんでおいた鶏と白ネギを使ってつくる焼き鳥丼にも匹敵しかねない。
味レベル、満足度はほぼ互角と言っていい。
これは由々しき事態である。
つまり僕が『明日のお昼は、なんにしよっかな?』と悩み、かかる手間を鑑みた結果、たまごかけごはんをセレクトする可能性は充分にある、ということだ。
それはいつだって時間がないと感じている、我々おろかな現代人の欲求を叶えてくれるのだ。
そして、たまごかけごはんの求心力はそれだけに留まらない。
たまごかけごはんのタイムパフォーマンスの良さに気づいた我々は、毎食たまごかけごはんを食べるようになる。
たまごかけごはんによって、困難へと立ち向かう気力を削がれた人々は、次第に料理そのものをしなくなる。
生産は卵と米に偏り始め、多くの人々がそれに従事することになる。
その頃には我々は自分の意思で何かをするということが、とても面倒に感じるはずだ。
たまごかけごはんさえあれば、生きていけるのだから。
たまごかけごはんディストピアには、鶏を唯一神とした新興宗教や、それに基づいた文化や芸術が発展するかもしれない。
その未来では、鶏の顔が描かれたポスターが街中に貼られている。キャッチコピーはこうだ。
『偉大な鶏があなたを見守っている』
人類は鶏ないし鶏卵によって、支配される。
これはもう警鐘などという、生易しい段階ではない。
たまごかけごはんは、それほど身近に我々の生活の中へ入り込んでいるのだ。
おっと。
お米が炊けたので、今日のところはこれくらいにしておこう。
なにか作りたいが、noteも書きたいからそんな暇はない。
今日も、たまごかけごはんにしよう。
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