見出し画像

田中兆子さんの『あとを継ぐひと』を読んで、僕は、父に認めてもらいたいとずっと思っていたことを、唐突に思い出した。

子供の頃から父が苦手だった。

言ってることは支離滅裂だし、職はコロコロ変わるし、毎晩酔っ払っては母(こっちも酔っ払ってる)と喧嘩してるし、休みの日に団地内の公園で太極拳をやらされるし、夏休み冬休みは山登りとスキー以外の選択肢はなかったし、どう考えてもフツーじゃないと思ってた。

もちろん流行りの歌謡曲は聞かせてもらえないし、アニメもドリフもザ・ベストテンも見せてもらえない。

超合金ロボがほしいとサンタクロースにお願いしても届くのは知らない外国の作家の分厚い本だし、たまに連れていかれる映画館で上映されているのは退屈で難解な作品ばかりで僕はすぐに寝てしまった。

だから、「どうやらウチはフツーじゃない」と気づき始めた小学校中学年くらいからは、同級生たちの「フツーの家庭」が羨ましく仕方がなかった。

そんな幼少時代をふと、思い出した。



信頼する何人かの読書家さんがこぞって絶賛している『あとを継ぐひと』を読んだ。

理容室、ふ菓子の製造会社、老舗旅館などを舞台に、「家業」を継ぐ人、継がせる人の関係性の揺らぎを丁寧に綴った話を中心据えた短編集だ。

小学校時代、まだ「商店街」が町の中心だったあの頃、親が八百屋さんや(チェーンではない)弁当屋さんだった同級生が何だかすごく羨ましかったことを思い出す。

「家業」を継ぐということに、ぼんやりとした憧れを抱いていた時期が確かにあった。

しかし、本書で描かれている通り、それは僕が憧れていたような、生温い環境ではないということを、今の僕は理解している。

物語の主人公たちは、きっと幼い頃から何度も「フツーの家庭に生まれたかった」と思ったことだろう。

では、本書で描かれている登場人物たちの葛藤や悔恨や逡巡は、実家が家業を営んでいない読者には理解や共感が及ばないかと言えば、答えは否だ。

それは、それぞれの短編単独での「普遍性」の高さももちろんあるが、サラリーマンを主人公にした(つまり家業とは関係のない)「わが社のマニュアル」と「サラリーマンの父と娘」というふたつの物語の存在がこの短編集を、読者にとって「わたしの物語」にしてくれているのだと思う。

広義の意味での「あと継ぎ」を描いた、それらの章を読み終えて、思い浮かべる景色は読み手によって様々だろう。

でも、きっと、その景色は、思い浮かべた本人が思わず涙ぐんでしまうくらい美しいものに違いない。



本書を読み終えた今、僕はぼんやりと、「もしかしたら、僕も、父のあとを継いでいるのかもしれないな」と考えている。

団地の狭い部屋に歌謡曲の代わりに流れていたビートルズの赤と青のベストアルバムは、今でも僕の愛聴盤だということを思い出す。

今でも僕がジャイアンツが嫌いでドラゴンズが好きなのは、チャンネル権の一切を握っていた父が毎晩プロ野球放送を見ながらジャイアンツを罵りドラゴンズに声援を送っていたことの影響だ。

サンタさんからもらったミヒャエル・エンデの『モモ』と『はてしない物語』はずっと変わらず本棚に大切に並べているし、あの日退屈で寝てしまった『2001年宇宙の旅』はその後の人生で何度も観返してきた。

そして、何より、僕は、父に認めてもらいたいとずっと思っていたことを、唐突に思い出した。

ボ・ガンボスが出る歌番組を偶然テレビをつけたふりして父に見せて「お、なかなかいいじゃないか、こいつら」と言わせたとき。

中学校の映画クラブで観て衝撃を受けた『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を金曜ロードショーでやってるからと、両親に「一緒に観よう」ともちかけて、放送終わってから父に「お前も、なかなか映画を観る目があるじゃないか」と言ってもらったとき。

大学卒業後、フリーライターになるんだと息巻いていた僕の原稿を全部読んでくれていて、「あいつ、なかなかいい文章書くな」と言っていたと母から聞いたとき。

本当に嬉しかった。

でも、そのときの僕はその感情が「嬉しい」ということに気づかずに、ずっと「父は苦手だ」と思ってきた。

じゃあ、それを今になって悔やんでいるのかと自問しても、正直、自分でもよく分からない。

本書に描かれている通り、父子の関係は、単純なようで、実は複雑で繊細だ。

不器用、と言い換えてもいいかもしれない。

ひとつだけ言えるのは、「あとを継ぐ」ということにも、いろんな形があるということ。

だから、僕も父のあとを継いで生きているって、そういう風に考えるのは、ちょっと感傷が過ぎるかもしれないけど、一方で、今は亡き父もそれを聞いたらまんざらでもないんじゃないかなという気がしている。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?