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金原ひとみさんの『パリの砂漠、東京の蜃気楼』を読んで、この作品をすがりつく思いで読んでいる女たちのことを考えた。

昨日のpostで、インスタを始めてから、初めてコメント欄を閉じた。

postしておいて、「少し静かにしてくれないか」なんて一切を拒絶するのは、いったいどういうつもりなのか、と自分でも訝しく思いながら、それでもあのとき、僕は誰とも語り合いたくないなと思っていたのはほんとうのことだ。

だけど、一方で、そんな僕に対して、「怒られるのを覚悟でDMします」と長文のメッセージを送ってくれるフォロワーさんもいて、僕は怒るどころか、そのメッセージを何度も何度も読み返している。

客観的に自分を見つめてしまうと、なんだお前?みたいなことが多すぎて、なのにそれでも、僕は僕自身の行いを改めることが、まったくもって、一切できない。



たとえば職場の送別会で、明日からは、もう会えなくなる人に対して放った一言に対して、「え、なんで、ひらのさん、そこまでわたしのことが分かるんですか?」って返されたときの絶望を、ふと思い出した。

だって、そういうあなたのことを、僕は好きだったから。

なんて、絶対に言えないじゃないか。



たくさんのフォロワーさんから、「読め読め」と推薦いただいていた『パリの砂漠、東京の蜃気楼』を読んだ。

読み始めたのは、通勤電車の中だったけど、最初の章を読んだ時点で、こんなものを出勤前に読んでしまったら会社に行きたくなくなるって分かったから、休日を待って、アルコールをお供に一気に読みきった。

読みながら僕は、勧めてくれたのが、ほとんど女性だということに思いを馳せていた。

女たちよ。
そうかそうか。

と、ちょっと泣きそうになりながら、この感情はなんなのか、自分でも分からなくなって、でも、この作品に感情を揺さぶられている「女たち」が、ただただひたすら愛しくて、なんなら、僕がまるごと愛してみせるのに、と一瞬だけ思って、そんなことを思ってしまった自分を少しだけ軽蔑している。
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そういえばこの間ほとんど一年ぶりに旦那とセックスしたよという報告に、どうだった?と脊髄反射で聞くと、セックスは彼と比べちゃうから満足度が低くなったと切り捨てるアカリに苦笑いしながら、私はやっぱり余裕がない人が好きだ、と思う。何かに焦がれ執着し、周りからどう思われるかという客観性を完全に喪失した人間に、今も昔も惹かれる。
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というような一文に惹かれる僕は、自分のこのややこしい性質を、それをもってチャラにしようとしているのだろうか、と自問している。

時々、僕が「彼女」を抱きしめてあげることができれば、それですべてが解決するんだって、そういう幻想を抱いてしまうことがある。

普通に考えれば、なにバカなこと言ってんの、ってな話だ。

だけど、金原ひとみさんは「そうかもしれないし、まあ、でも、わたしにはどうでもいいよ」と返してくれそうな気がして、きっと僕はその答えに、ちょっとだけ安堵してしまうのだろう。
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「誰か本音を話せる人がいるの?」
「大丈夫。私は小説に本音を書いている」
「ずっとそうやって生きていくの?」
「そうやって死んでいく」
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そこから先に綴られた一文を、僕は絶望しながらも、どこか救われた思いで読んだ。

僕の、この絶望を、誰にも分かってもらえないままに、僕は死んでいくんだ。

そう思ってみても、今は不思議と、それほど哀しくない。

この作品にすがりつく思いで読んでいるあなたのことを僕は救うことはできないけど、そんなあなたに僕は救われてますと伝えることはできるよ。

そういう作品だった。

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