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伊与原新さんの『八月の銀の雪』を読んで、人は誰しも「仮面」をつけて生活をしているが、その姿こそが実は「ありのままの自分」だということを考えた。

いくら僕が「おセンチ」を名乗っているからといって、年がら年中、感傷的になっているわけでは、もちろんない。

ふわふわと感傷に溺れていては仕事なんか手につかないし、家族に「感傷的な俺」を見せることはめったにないし、そもそも「感傷に浸る」余裕なんて日常生活においてはほとんどないに等しい。

だからだろうか、ふと「日常生活」から離れて読書をしたり音楽を聴いたりしていると、忘れていたような思い出が溢れ出してきて、「日常生活」とのコントラストに、必要以上に感傷的な気分になってしまう。

けれども、その「おセンチな気分」というのは、「日常生活」から切り離されたものではなく、むしろ「日常生活」と混ざり合った感情なわけで、だからこそ、より一層、切なく感じてしまうのだ。

その「切なさ」の源泉は何かと考えたとき、それは「過去の自分」と「現在の自分」が重なりあわないことの、戸惑いやもどかしさや後悔や感慨なんだろうな、ということを思ってみたりする。

未熟だったはずの「過去の自分」に、何故か言い様のない憧れを感じてしまい、その感情をもて余してしまうからこそ、僕は、それを「おセンチエピソード」としてラベリングして、その場をやり過ごそうとしているのかもしれない。

でも、その「おセンチなわたし」というのは、僕だけの特別な感情じゃないというのは、僕のキャプションへの皆さんの反応からも明らかだし、だとすれば、たとえば、すぐ隣にいる「イヤなあいつ」にも、そういう「感情」が内在していると考えるのが、平等で論理的な思考なんだろう。

だけど、「日常生活」を送る僕は、「平等」でも「論理的」でもないから、「イヤなあいつ」はそんな感傷とは無縁だと思い込んで譲らない。



伊与原新さんの『八月の銀の雪』を読んだ。

5篇の短編が収められた作品集で、正直なところ、あまり響かない章もあったけれど、「過去に対する感傷」の扱い方は、共通してデリケートで緻密なものだったし、感傷を「科学」を通して描こうという試みには、非常に興奮させられた。

科学って、前から思ってたけど、下手したら芸術作品よりロマンチックだよな。

そして、そんな僕の思いを利用するかのように、計算高く迫ってくる、感傷の「あらわれ方」に、瞬時に鷲掴みにされる。

「イヤなあいつ」がまるで隠すように抱えた感傷に、ふいに揺さぶられる、それが心地よい一冊だった。

人は誰しも「仮面」をつけて生活をしているが、その姿こそが実は「ありのままの自分」だということを、本書は優しく解き明かす。

それは、何故かと言えば、「感傷」というのは、それを隠すための「仮面」の下から漏れ出てくるものだからだ、という本書の「仮説」を、僕は全面的に支持したい。

手っ取り早く分かりやすい例が身近にいるけど、本人、絶対に嫌がるだろうから、今日のところは、これはあくまで一般論ってことにしておこうと思う。

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