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やせた新聞

毎朝郵便受けに新聞を取りに行くが、ここ最近の新聞は本当に厚みがない。手に持った重さもとても軽い。折り込まれるチラシもない。県内で、国内で、そして世界中で、様々な行動を抑制しているからこそニュースになるようなことが起こらないのだろう。「あれ、間違ってスポーツ紙?」という厚みだ。

日によって多少ページの増減はあるもののよくあれだけの分量の情報を毎日発信できているなと以前から思っている。僕は文章を書くのが苦手、読むのも苦手。最近では積極的になってきたがかつては活字を読むのが本当に苦手だった。そんな僕にとって、新聞というのは恐ろしいほどの文字量のお届け物と思っていたし、今でもそう思っている。

世の中のことを調べ正しい情報を伝達したり、誰かに注目してその人の活動を伝えたり、情報を深掘りしたり新しいネタはないかと探し回ったりしてあれだけの文字量になっている。その中でどれだけ読みたいなと思える記事があるかどうかは別として様々な情報を提供し提案してくれている。そこに期待して僕は購読している。

今は“欲しい”と思った情報であればそのキーワードを検索窓に打ち込めば数秒で解決にたどり着ける。ただ普通に日常を過ごしているだけだと“欲しい”と思う欲求がネタ切れを起こしていく。結果として検索窓もそれほど必要がなくなってくる。そうなりたくはない。だから新聞のような媒体に強制的にネタを提案してもらいインプットしていく必要がある。しかしまぁ新聞というのは一日の情報としては有り余る情報量だ。

以前は“ネット時代だから”と新聞は取っていなかった。そんなわざわざ月々3,000円出してネットでも見られるようなものを…という感覚だった。でもネットの中だけだとどうも自分には物足りなくなってきた。本当のことも書かれているが、なんだか本当じゃなさそうなことまで書いてあるような気がしてきてしまったから。事実はそこまでブレた内容にはならないと思うが、そこに隠された真実がどうなのかと考えた時に信憑性が高いのはわざわざお金を出すものの方だと認識して新聞にたどり着いたわけだ。

いいアウトプットは良質なインプットからだと思っているので情報料を支払うというスタイルをとっている。誰に何をアウトプットするというわけでもないが良質な日々を送っているという自己満足のためだけにでも価値のある選択だと思っている。

そんな良質な情報自体が今は目に見えて減っている。手に取る重さや厚さでも感じている。その量は厚みにして約半分。新聞に書きたくなるような、書けるような動きが単純に半分近くまで減ってしまったということだ。しかし人々が状況を理解し、行動しないという行動に徹し始めた賜物と捉えたい。

いつかこのやせ細ってしまった新聞をリバウンドさせられるように、僕も微力ながらもうしばらく動かない努力を続けていきたいと思う。



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