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愛を贈る準備が整ったら

11月にしては温かい平日の朝。休みだったので両親に会いに行った。
自宅の最寄り駅から西武池袋線に乗り、練馬駅で都営大江戸線に乗り換える。練馬春日町駅で下車すると、両親が”仮住まい”をするアパートまで徒歩5分だ。

春ごろから今にかけて、実家が建て替えを行っている。兄夫妻が両親と同居するため、2世帯住宅にするらしい。
私が東京から離れて6年、兄夫妻は両親と話し合い、私にもちゃんと説明をしてくれながら、2世帯住宅にする準備を着実に進めてきた。兄夫妻にとって、そして両親にとって念願のマイホームが東京に建つ。両親はその間、もともと実家の最寄りだった駅とは少し外れた練馬春日町駅の近くのアパートに住んでいる。

両親と会うのは約3ヶ月ぶりだった。新型コロナウイルスの感染がなかなか収まらず頻繁にいくことはできなかったが、両親も私もワクチンを打ち終わり、感染者の数もだいぶ少なくなってきた状況を鑑みて久しぶりに会いに行った。
チャイムを鳴らすと元気な母が鍵を開ける。繊細な父は部屋の奥から覗き込みにっこりと微笑む。私が育ってきた日常の風景が、建物を変えてもそこにあった。

父が「散髪に行ってくる」とイヤホンを耳に突っ込み、ハンカチを持って外に出ていく。母と私は、両親がこの前行ったという旅行の話などを肴にみかんやりんごを食べていた。住宅街特有の車と人の音が響くゆったりとした時間を過ごしていると、ふと建て替え中の実家を見に行こうという話になった。私と母は身支度をさっと整えて外に出る。思ったより温かい気候は散歩日和だった。

「そういえばさ、おばちゃんって元気にしているかな?」
「たまに会うけど元気にしているよ」
「そうなんだ。そういえばお母さんとおばちゃんはどうして出会ったの?」

おばちゃんとは。
私は物心がつくかつかないかの頃から、兄とともにベビーシッターに預けられていた。そのベビーシッターが通称「おばちゃん」だ。
母は保育士として働いていたため、たまに「遅番」といって午後7時くらいまで働くことがあった。父はサラリーマンとしてどんなに早くても8時くらいにしか帰ってこれなかったから、保育園の預かり時間をどうしても超えてしまう時があった。こんな日を解決するために、おばちゃんが兄と私を預かってくれていたのだ。

「あれ?知らなかったっけ?クリーニング屋の店主が紹介してくれたのよ」
「あの、家の近所の?」
「そう。誰か預かってくれる人いないかしらって相談したら、『ちょっと知り合いにいるかもしれない。聞いてみるからちょっと待って』って言ってくれたのよ」

地元のクリーニング屋の店主は、とっても元気でダミ声の女性である。「たまちゃん、たまちゃん」と会えば声をかけてくれる。
私が「クリーニング屋さんの中ってどうなっているの?」って首を傾げた時は、「こっから入ってきな!」と、カウンター横の低いドアから招き入れてくれて、ズラりとビニール袋に包まれた服がかけられている風景を見せてくれたものだ。私は『あの気さくさと距離の近さは、母と店主のこんな繋がりから生まれていたのだ』と勝手に納得していた。

「ふーん、そうか。でもさ、その時代ってベビーシッターとか一般的ではなかったでしょ?見つけるの大変だったりしたの?」
「そうね、確かに見つけるのは大変だった。今でこそ、NPOとかがベビーシッターを見つけるためのマッチングを行っていたりするでしょ。でもその時はそんなこともなかった。お金で解決するしかないよね、なんて色々考えていたけど、預ける人を選ぶのも結構大変だったんだよ」
「だろうね」
「最初、お兄ちゃんを預けていたところがあったんだけど、そこは自分の家の子供とお兄ちゃんを一緒に見るという形で、生活感がありすぎて馴染めなかったというか、預けたくないなって思っちゃった。せっかく見つかったし、本当にありがたかったんだけどね。そんな時におばちゃんが現れたのよ」



おばちゃんは、淡々と優しかった。
私がまだ預けられてまもない頃、おばちゃんの家について抱っこしてくれている母の手から離れる時に毎度のように大泣きをしていた。写真にも残っている情景で、私の頭の中にも記憶としてある。母が「今日は泣かないかな」と自転車に乗っている時に語りかけてくれていたことを鮮明に覚えている。
ひとしきり泣いたあと、おばちゃんはリビングの和室まで私の手を引き、話しかけてくれていた。
「はい、今日は何してあそぼうかね」
押し入れからあやとりやら折り紙やら福笑いやらをゴソゴソと出してきて、遊びの時間が始まるのだった。

この「はい」という口癖が、私にとって切り替えのスイッチだった。
「はい、たまちゃん、ご飯にしよう。手伝って」
「痛かったね。はい、消毒しよう」
「はい、バイバイ。今日のお菓子はこれだよ」

おばちゃんは優しいながらも、「はい」と切り替えの魔法をかけて粛々と物事を進めていく。そんな淡々と優しいおばちゃんのことを、私はどんどんと好きになっていった。


私は母に再度質問する。

「預けるのは抵抗があったの?」
「いや、おばちゃんに預けるようになってからはないかな。保育士は他人の子供を育てるでしょ。その時に自分ちの子をどうするのかって、本当に課題なんだよね。おばちゃんはさ、保育園の給食の調理人(通称:給食のおばちゃん)をしていたり、きょうだいが保育士をしていたりして理解があったの。そして話し好きで色々な話をしてくれるでしょ。その姿がよくてね」
「なるほどね。結局1歳くらいから小学3年生まで行っていたから10年くらいか」
「そうだね。週2〜3日お願いしていたし、結構おばちゃんの家にお世話になったね」

母はおばちゃんの話をする時、感謝しているということがよくわかる。
「環が熱を出した次の日に預かってくれたりね」とか、「ご飯もしっかり用意してくれて助かったんだよね」とか、「花火をしたり一緒に手芸屋に行ったり、色々遊んでくれたんだよね。私の知らない世界があったんだよね」とか、具体的な色々なエピソードを覚えていて、母のおばちゃんに対する感謝を感じた。

そして、おばちゃんの家には公務員だった旦那のおじちゃん、当時中高生だった姉妹2人がいて、兄と私をよく可愛がってくれた。
母は「本当におばちゃん一家に知り合わなかったらどうなっていたかね。地域のつながりからあんないい人たちに会えてよかったわ」と目を細めていた。



私は話を聞いている時、終始泣きそうだった。
それは、当時の思い出を振り返る中で母やおばちゃんらの愛を感じるとともに、彼女や彼らの裏側に子供では気づけない辛さや焦り、苦労があったのだということが話の端々からわかってきたからだ。

母の眉間には深い縦皺が入っている。
目が悪いのにメガネをせずに目を細め続けたからと笑い話をすることもあるが、
兄と私の入っていた少年野球のチームの集まりや働いている保育園で、他の子供を怒ったり諭したり、他の親と膝を付き合わせて話し合ったりしている姿を何回も見たことがある。
他人と本気でぶつかっている中で、疲れや苦労がその眉間に蓄積されたのではないかと私は思っている。

そんな母を助けたおばちゃんも、一生懸命にご飯を作ってくれたり、家事をこなす中できっとたくさんの疲れが溜まっていただろう。この文章を書いていて思い出したが、何回か肩をもんだことがある。「人助けしたぜ、ピース!」くらいで私は自分の手柄くらいに思っていたが、おばちゃんの肩に溜まっていた疲労はどんなものだったのだろう。
慣れない男の子である兄と私を育て、中高生で年頃な娘たちの子育てにも四苦八苦していたのではないか。真っ暗な台所で1本だけ灯る蛍光灯の下、ぼーっと立つおばちゃんの後ろ姿を、私は柱の影から見ていた記憶もある。あの時、何を考えていたのだろうか。

きっと、おじちゃんもタバコを吸ってガハガハ笑いながら何かを考えていただろう。NHKのニュースだけは絶対に見る頑固さは、きっとおじちゃんの真面目さや正義感だったのではないだろうか。
中高生の姉妹も兄と私を可愛いとあやしながら、友達や恋愛に悩んでいたかもしれない。たまに帰りが遅くなって会えない日もあったが、バイトや人間関係に忙しく生きていたのだろう。

私は色々な人からもらった綺麗な愛を、心の中にぺたぺたと貼りながら楽しい思い出をたくさん作れた。子供のころはその愛の裏側を想像するようなことはできなかったけど、歳を重ねて、愛の裏にあるものを想像する力がついたのだなと、涙を堪えながらそっと思った。

兄と両親の2世帯住宅が来月完成する。
そこから新しい家族の物語が始まるのだと考えるととてもワクワクする。
新居に私の部屋はないけれど、実家であることは変わりない。
そこにおばちゃんも招いて、みんなで静かな祝福をしよう。

そして、新居ができたらもう世代交代なのだ。
両親やおばちゃんから愛を受け取り心を育てた私は、その裏にある苦労も疲れも思いやれるようになった。
両親やおばちゃんらにもらったたくさんの愛を返していく番になったのだと思う。世代交代は待っていてくるものではない。自覚して取りに行くものなのだ。

きょう、この瞬間から、母に父に、おばちゃんに、愛を贈ることとしよう。

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