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一時停止する勇気、ある?

 進路に揺れていた。

 2012年の12月、大学を1年間休学して石垣島の新聞社でインターシップをしないかと、ゼミの教授から誘いがあった。所属する体育会男子バレーボール部では、12年10月に先輩が引退し、新体制では私が主将を務めることになっていた。1年生の頃からレギュラーで出場し、練習を仕切っていた私が主将になるのは当然で、その責任があった。将来の夢とこれまで培ってきた立場や仲間を天秤にかけ揺れていた。

 ただ、自分の将来を考えた時、新聞社の仕事を経験せずに新卒で入社するというのは地に足がついていない感覚があった。「バレーボールだけをやってきて、バイトはおろか旅行さえまともに行けていない。こんな世間知らずのまま記者になれるのだろうか」。部員全員にきちんと説明し、責任をとって部活を辞め、将来に向かっていこうと決心した。


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 部活には顧問の先生が2人いる。1人は体育系の教授で、自身もバレーボールをやっていたおじいちゃん先生。もう一人は納会などの行事のみに顔を出す、肩書きだけの教授だ。年が明けた2013年1月、2人の先生に報告した。


 おじいちゃん先生はとにかく明るくお茶目だ。先生の引き笑いが周りを笑顔にする様子を何度も目にしたことがある。
 部活を辞めると伝えたとき、悲しい表情を浮かべ「うん、うん」と話を聞いてくれた。そして、分厚い手で私の背中をガツンと叩き、「頑張ってこい」と金属が光る前歯を出して笑った。負い目を感じていた私は少し楽になった気がした。

 もう一人の先生、睦(むつみ)先生のことはよく知らなかった。顧問になって日が浅く、1、2回くらいしか顔を合わせたことがない。「どう伝えればいいのか。部活に来ることはないし、そもそも研究室の場所さえしらない・・・」。私はひとまず、メールを入れた。

 「突然ですが部活を辞める件で連絡しました。……主将の自分が抜けるのはたくさんの方々に迷惑をかけることは重々承知していますが、今しかできないことだと思ったので部活を辞めさせていただきます。……」

 正直なところ、睦先生のことを少しなめていた。バレーボールのことはよく知らない様子だし、身長は高いもののどう考えても文化系の身なり。私が1から作り上げたと言っても過言ではないこのチームのこと、私自身のことを何がわかるのだろう、とたかを括っていた。先生から「わかりました。頑張ってください」と形上の理解だけを得られればそれでいいと思っていた。

 メールを入れて2時間後、返信があった。

「よいチャレンジだと思います。……ただ、別に辞めなくても良いし、部活も休学でいいんじゃないかと思います。長い目で見たらどうかな。ということを私から強く言われた、ということを踏まえ(笑)、残るもよし、辞めるもよし……」

 私にとっては衝撃だった。睦先生はヘラヘラしている

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 部活とは。私にとって実力だけが正義の荒野のようなところだった。
 その感覚は高校時代に培った。部員同士の仲は悪かった。だけど、強かった。都立高校(私立や一部の都立と違ってバレーボール推薦がない)ながら、都ベスト8まで上りつめ、全国大会出場だって絵空事ではなかった。レギュラーの中には高校から競技を始めた選手もいて、私だって中学時代は部員が3人しかいなかったから初心者みたいなものだった。そのような中で努力を重ねレギュラーを掴み、目の前の試合に勝ってきたと自負する私たちは、仲こそ悪かったが、プライドを高く掲げ、いつも歯を食いしばっていた。

 自分にも他人にも厳しかった。後輩に抜かされレギュラーを外れた同期が辞めるときはチーム全体がもの凄い空気に包まれた。全員がブチ切れイラついた。「諦めてんじゃねえよ」。勝負の世界から離脱したことに怒った。だけど、実力こそが正義だからレギュラーを外れたその同級生を必死になって止めることはなかったし、戻って来れるような空気でもなかった。とにかく勝負を続け、その中で実力がある奴だけが偉い。部活とはそういうところだった。

 死に物狂いで部活をやってきた私だったから、私のケジメに対して睦先生がヘラヘラして、文面に「(笑)」を使って返信してくることは驚きだった。私の悩みってそんなに小さいものなのか?

 一方で、どこか軽くなっている自分がいた。「え!?戻ってくるって選択肢も一般的にはありなの?」。私はバレーボールが大好きだ。他の団体競技と少し違って、一人で練習できることがほとんどない。常に2人以上いないと練習もできない。その分、チームメイトとのコミュニケーションが非常に大切で、全員でチームを作りあげる感覚がある。普段は仲が悪くても、試合になったら一変する。それがバレーボールなのだ。この世界にもう一度、戻れるかもしれない…。睦先生の提案は魅力的だった。


 数週間後、睦先生の研究室へ行った。ノックして入ると、睦先生は「この人が環さん?」という疑問の顔を少し浮かべた後、私が名乗ると笑顔になった。私が睦先生をよく知らないように、睦先生も私のことをよく知らない様子だった。

 私は一連のことを話した。睦先生は聞いた後、柔らかい口調で言った。

「メールでも言いましたけど、辞めなくてもいいんですよ。これまで環さんが頑張ってきたことは部員の皆さんもわかっていると思いますし、若い頃の人脈は大切ですからね」

 睦先生の温和な空気は、私が急いで固めた色々な言い訳をゆっくりと溶かしていった。「インターンシップが終わったら、戻ってこようかな。バレーボールが好きだし、また本気でやりたい」。私は自然と素直な自分を受け入れ始めていた。睦先生から目線をずらすと、褪せた地球儀があった。世界は広いよな、なんて口に出すのは恥ずかしいことも考えた。

 「いいじゃないですか、休部で」

 「そう、ですね。ありがとうございます」

 「はい。頑張ってくださいね」

研究室を出ると、肩の荷が降り心も体も軽かった。帰る時、なぜか、階段に向かって歩く自分の後ろ姿が脳内に浮かんだ。その姿は軽やかだった。

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 結局、私は約1年のインターンシップを終え部活に戻った。主将ではなく、普通の部員として。同期になった後輩たちはやりにくかっただろうけど、私はとにかく楽しかった。好きなバレーボールをまた真剣にやることのできるこの環境に戻れたことが。あの時、”ケジメ”として辞めていたら、こんなにも温かく充実した日々はなかっただろう。

 戻って数ヶ月後に全国紙から内定をもらい、睦先生にメールで報告をした。

「おめでとう。いいところを選びましたね。バレー部の方も面倒みてもらってありがとうございます。環君がいると締まる、とOBのみなさんが言っています」

 睦先生の温和な空気がもう一度、私に流れた。


 今になって思う。”ケジメ”として部活を辞めていたら、私は楽だっただろう。チームとの関係を断ち切って逃げることができたのだから。休部という選択は、自分も部員も少し不安定な糸で繋がっていて、心もとない。ただ、この緩いつながりが互いに小さな希望になり、時に焦らし、時に諦めとなって、私の場合は喜びに繋がったのだと思う。不安定でほんのりとした辛さはあったけど、その糸を切らなくてよかったと思えている。


 

 睦先生が教えてくれた一時停止の勇気は、今も大事に持ち続けている。

 春がくる。新しい日々の中で、またつながり、止まり、くっつくような人間関係が生まれることだろう。



SPECIAL OTHERS/Wait for The Sun

<環プロフィール> Twitterアカウント:@slowheights_oli
▽東京生まれ東京育ち。都立高校、私大を経て新聞社に入社。その後シェアハウスの運営会社に転職。
▽9月生まれの乙女座。しいたけ占いはチェック済。
▽身長170㌢、体重60㌔という標準オブ標準の体型。小学校で野球、中学高校大学でバレーボール。友人らに試合を見に来てもらうことが苦手だった。「獲物を捕らえるみたいな顔しているし、一人だけ動きが機敏すぎて本当に怖い」(友人談)という自覚があったから。
▽太は、私が死ぬほど尖って友達ができなかった大学時代に初めて心の底から仲良くなれた友達。一緒に人の気持ちを揺さぶる活動がしたいと思っている。
▽将来の夢はシェアハウスの管理人。好きな作家は辻村深月


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