「深読み LIFE OF PI(ライフ・オブ・パイ)&読みたいことを、書けばいい。」志賀直哉『小僧の神様』篇⑪(第278話)
前回はコチラ
2019年9月20日 朝
スナックふかよみ
新渡戸稲造の『一日一言』の中にある「恩を施しては忘れよ:情けは人の為ならず」は4月23日?
それが『小僧の神様』と何か関係あるのですか?
もちろんだとも。
「4月23日」って、何の日か知ってる?
え? 何の日だろう…
では解説しよう。
Y夫人の音楽界と、Aの奇妙な細君へつながる、重要なブリッジだ。
1914年の夏に交通事故で負傷した新渡戸稲造は、温泉療養中に「ある青年の痛ましい経験」を知り、心から同情した。
それは、同じ三陸出身で、新渡戸の盟友 内村鑑三の愛弟子でもある志賀直哉が、一度は掴みかけた成功の果実を、自ら手放してしまったという出来事。
何か力になりたいと考えた新渡戸は、志賀へのメッセージが序文に織り込まれた格言集『一日一言』を出版。
作家活動をやめていた志賀は、世間で大評判になっていたこの本を読み、秘められた新渡戸のメッセージに気付く…
これに勇気づけられた志賀は再び筆をとり、自身の交通事故と温泉療養を題材にした『城の崎にて』(1917年)で復活。
そして1919年の暮れ、恩人である新渡戸への返歌、アンサーソングとして『小僧の神様』を書いた。
『一日一言』の中から「恩を施しては忘れよ:情けは人の為ならず」を引用して…
四月二十三日「恩を施しては忘れよ」
施せし情は人の為ならず
おのがこゝろの慰めと知れ
我れ人にかけし恵は忘れても
ひとの恩をば長く忘るな
志賀は、それが「4月23日」であることに着目した。
なぜなら4月23日とは…
あっ!わかった!
4月23日は、大切な人に本を贈る日「サン・ジョルディの日」よ!
新渡戸が志賀に『一日一言』を贈ったから、志賀は『小僧の神様』で返したんだわ!
サン・ジョルディの日?
4月23日は『ドン・キホーテ』で有名なセルバンテスの命日でもあり、作家の神様ことシェイクスピアの命日でもあるのよ!
だから大切な人に想いを込めて本を贈るの!
日本では4月23日が「小僧 読書の日」にも定められているって書いてあるじゃん!
「小僧」じゃなくて「子ども 読書の日」ですよ…
それに、ユネスコこと国際連合教育科学文化機関で「世界 本の日」が定められたのは1995年ですし、そもそも発祥の地カタルーニャで本のプレゼントが始まったのも1923年からです。
新渡戸が『一日一言』を書き、志賀が『小僧の神様』を書いた1910年代には、まだ日本に入って来るどころか存在すらしない習慣…
そんなものをネタに使えるわけがありません。
あ、そっか…
じゃあ「4月23日」って何の日なの?
「サン・ジョルディの日」で合ってるんだよ。
えっ?
「サン・ジョルディ」とは、英語でいうところの「セント・ジョージ」…
つまりイングランドやジョージア(旧グルジア)の守護聖人「聖ゲオルギオス」のことだ。
4月23日というのは「聖ゲオルギオスの日」なんだよね。
あ、そうか…
聖ゲオルギオスとは、ポール・サイモンの名盤『グレイスランド』のジャケットに描かれている「Saint George」のことだ…
英国の国旗「セント・ジョージ・クロス」の「セント・ジョージ」ね。
セント・ジョージの祝祭日である4月23日には、英国各地で「ある詩」が歌われる。
その詩とは、ウィリアム・ブレイクの『And did those feet in ancient time』…
「古代、あの足が」というフレーズで始まる詩…
ああ、この歌知ってる。
ウィリアム王子とケイトさんの結婚式で歌ってたわ。
あの足が? 妙なタイトルですね…
ふふふ。
それはまた後程、でしょ? 深読み探偵さん(笑)
ええ。志賀と「あの足」については、また後程ゆっくりと…
しかしなぜ志賀は「聖ゲオルギオスの日」に着目したのでしょう?
「恩を施しては忘れよ:情けは人の為ならず」とは何の関係もなさそうな気がしますけど…
「聖ゲオルギオスの日」とは、ローマ帝国でゲオルギオスが処刑された日「4月23日」を記念したもの…
まだキリスト教が弾圧されていた時代、救いを求める人々に洗礼を施していたゲオルギオスが、とある地方領主によって斬首された日の祝祭日なんだ…
洗礼? 斬首?
中世ヨーロッパで聖書の次に多く読まれていたヤコブス・デ・ウォラギネの『黄金伝説』には、聖ゲオルギオスの伝説として、こんな物語が書かれている…
西暦302年、ローマ皇帝ディオクレティアヌスはキリスト教禁止令を発令し、棄教を拒むものには拷問・処刑が行われることになった。
旅をしながら人々に洗礼を施していたゲオルギオスは、とある地方領主に逮捕され、牢に入れられてしまう。
ゲオルギオスは地方領主から棄教を迫られるが、断固としてそれを拒否し続け、囚われのまま年月が過ぎて行った…
棄教しないまま牢獄に?
その地方領主は、なぜすぐにゲオルギオスを処刑してしまわなかったの?
地方領主はゲオルギオスの不思議な力を恐れていたからだよ。
ゲオルギオスを拷問すると、建物が崩れ落ちたり、なぜか様々なトラブルが起こった。
もし処刑したら、とんでもない災いが降りかかるんじゃないかと、その地方領主は不安だったんだ。
つまり地方領主も、ゲオルギオスのことを内心、信じていたんだよね…
ん? その話、どっかで聞いたような…
だけど事態は急変する。
あろうことか、地方領主が寵愛していた女が、夜な夜なゲオルギオスの牢へ、密かに通っていたことが発覚したの…
彼女はゲオルギオスに興味を持ち、ゲオルギオスの語るイエスの教えに心打たれていたのよね…
えっ!? それって…
それを知った地方領主は激怒した。
そして、ゲオルギオスの目の前で、女をなぶり殺しにしてしまう。
意識が朦朧とする中、彼女は最後の力を振り絞って、ゲオルギオスにこう言った。
「私はまだ洗礼を受けておりません」
彼女の信仰の篤さに心打たれたゲオルギオスは彼女を祝福した。
「今あなたが流すその血が洗礼となるのです」
この言葉を聞いた彼女は、満足げに息を引き取ったという。
そして、それを見ていた地方領主は、ついにゲオルギオスの首をはねてしまった…
地方領主に逮捕・監禁される洗礼者…
その洗礼者に興味を抱いた、地方領主に寵愛されていた女…
洗礼者は地方領主によって斬首され、寵愛を受けていた女も処刑される…
これって、オスカー・ワイルド作、リヒャルト・シュトラウス作曲のオペラ『サロメ』じゃん!
その通り。
「聖ゲオルギオスの斬首」は「洗礼者ヨハネの斬首」が下敷きになっている物語なんだ。
だから志賀は「4月23日」の「恩を施しては忘れよ:情けは人の為ならず」を、Aの「小僧への御馳走とその是非の葛藤」として描き、その後にBと一緒にY夫人の音楽会へ向かわせた…
そして二人は夜になってから、Bの家の自動車で、Y夫人の音楽界を聴きに出掛けた。
晩(おそ)くなってAは帰って来た。彼の変な淋しい気持はBと会い、Y夫人の力強い独唱を聴いているうちに殆ど直ってしまった。
「Y夫人」って、志賀の友人だった柳宗悦の奥さんで、後に「声楽の母」と呼ばれた柳兼子なんでしょ?
表向きはね。
しかしY夫人の独唱とは『サロメ』の独唱…
つまり「Y」とは、オスカー・ワイルドの「ワイ」だ…
オスカー・ワイルドのワイ?
そんなまさか…
第七場の後半を見ていけば、その意味はわかるだろう。
音楽会から帰宅したAは、まず細君から体量秤の礼を言われ、こんな会話を交わす。
「それはそうと、先日鮨屋で見た小僧ネ、又会ったよ」
「まあ。どこで?」
「はかり屋の小僧だった」
「奇遇ネ」
あれ?
そういえば、なぜ志賀は「秤屋」を「はかり屋」と書いたんだろう?
それまでは全部漢字で「秤屋」と書いていたのに…
しかも「はかり」の字には注意・強調を示す傍点「'''」が付けられている…
いいところに気付いたね。
『小僧の神様』には「傍点」が付けられた言葉が2つ登場する。
1つは「かみさん」、そしてもう1つが「はかり」だ。
なぜ志賀がこの2つの言葉に傍点をつけたかわかる?
「かみさん」と「はかり」?
なぜだろう…
簡単だよ。
「かみさん」は「神様」で、「はかり」は「はかりごと」…
つまり、この小説のテーマは「神の計画」という意味だ。
ああっ!なるほど!
そして、もう1つの意味も隠されている…
「かみさん」「はかり」で…
かみさんはカーリー…
『カーリー』ラヴィ・ヴァルマ
さ、サロメじゃん!
なんと…
強調された2つの言葉に隠された秘密のメッセージ「かみさんはカーリー」…
どういうことか、わかるよね?
つまりAの奥さんは…
夫であるガリラヤ領主ヘロデ・アンティパスがメロメロだったサロメに、洗礼者ヨハネの首を切らせるよう指示した妻ヘロデヤ(ヘロディアス)…
『ヘロディアスと洗礼者ヨハネの首』
ポール・ドラローシュ
その通り。
なんてことなの… 信じられない…
Aは小僧に鮨を御馳走してやったことを妻に話した。
「御馳走」とは「ある目的を達成するために方々を走り回る者」を意味する「馳走」の丁寧語・尊敬語が語源だったよね。
つまり、メシアの預言を成就させるため、先に世に出て、後から来るイエスを待ち、イエスが「神の子羊」であること、つまり生贄になる運命であることを伝え、洗礼を授けた「前駆」ヨハネのことだ。
だからAは、その時に少し淋しい気持ちになったとも伝えた。
ヨハネは前駆の役割を果たした後、衰えて惨めな最期を遂げることが定められていたから。
そして妻は、この話について少し考え、突然スイッチが入る…
「なぜでしょう。そんな淋しいお気になるの、不思議ネ」善良な細君は心配そうに眉をひそめた。細君はちょっと考える風だった。すると、ふいに、「ええ、そのお気持わかるわ」と云い出した。
モードに入った…
奥さんが、自分に与えられた役割、ヘロデヤを演じ始める…
あの不思議ちゃんみたいなノリは、そういうことだったのね…
そして妻とAの会話はこう続く。
「そう云う事ありますわ。何でだか、そんな事あったように思うわ」
「そうかな」
「ええ、本統(ほんとう)にそう云う事あるわ。Bさんは何ておっしゃって?」
「Bには小僧に会った事は話さなかった」
AはBに小僧と会ったことは話さなかった…
なぜならヨハネは、ガリラヤ領主ヘロデ・アンティパスに、イエスと会ったことを話さなかったから…
だからヘロデ・アンティパスは、人々を熱狂させるイエスの噂を聞いた時、処刑したヨハネが生き返ったのかと思ったんですよね…
そして、妻のこのセリフがオチとなり、第七場は締めくくられる。
「そう。でも、小僧はきっと大喜びでしたわ。そんな思い掛けない御馳走になれば誰でも喜びますわ。私でも頂きたいわ。そのお鮨、電話で取寄せられませんの?」
この小説における「鮨」とは「煮たり焼いたりせず生のまま贄になったもの」つまり「生贄」という意味…
まさに先程の絵『ヘロディアスと洗礼者ヨハネの首』です…
「電話で取寄せる」は「サロメに耳打ちして取寄せる」だわ…
どこか怖い感じのする発言に思えたのは、こういうことだったのね…
Aは洗礼者ヨハネで、Bはヘロデ・アンティパス…
そしてAとBが贔屓にしていたY夫人はサロメで、Aの奥さんはヘロデの妻ヘロデヤ…
第七場に登場する4人には、『サロメ』の登場人物4人が投影されていた…
まるで『ライフ・オブ・パイ』みたいよね。
シマウマは水夫で、ハイエナはコック…
そしてオランウータンは母で、トラはパイ…
だけどなぜ志賀は、こんなことやろうと思ったの?
『小僧の神様』は、新渡戸への返歌であり、『ヨハネ伝』の再現なんでしょ?
『ヨハネ伝』にはサロメの逸話は出てこないし、ここまでオスカー・ワイルドの『サロメ』を盛り込む必要なくない?
それが、あるんだよね。
え?
つづく
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?