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【目印を見つけるノート】328. つがいの相手がいるならば

花粉症は大丈夫ですか。
私は目をやられています👀
バルビゾン、じゃなくて何でしたっけ。
バのつく目薬をさしています。

今日は久しぶりに、本を1冊買いました。小さいけれどハードカバー、ちょっといいお値段で、前から少しためらっていたもの。

『わたくしたちの成就』(選詩集です)
茨木のり子 童話屋

その本にまつわるお話にしましょう。

さて、
世田谷文学館というところがあります。
企画展がツボを押さえているなあと感嘆しつつ、なかなか行けないでいます。なぜなら、都内にも関わらずうちから行くのが結構骨なのです。

芦花公園、車なら環八でさほど遠くないのに、電車は複雑怪奇魑魅魍魎になってしまうのです。環七とか環八の上に電車があればいいのですけれど。
荻窪からバスとか、大回り😅
それなら荻窪に行っちゃう。

ですので、行ったのは
たったの一回😞💦

今は何の企画展かな。
🤪
『あしたのジョー』でした。

たったの1回行ったのは、詩人の茨木のり子さんの企画展でした。いい展覧会でした。茨木さんの人となりがよく分かって、何より生活の息吹がありました。じっくり回りました。

〈自分の感受性くらい
 自分で守れ
 ばかものよ〉

『自分の感受性くらい』引用は記憶より

いいですねえ、一喝。

その展覧会を見て、いちばん感じ入ったのは配偶者の三浦安信さんとの関わりでした。お写真を拝見しても本当になかよしで、他の方もよく家に招いたりオープンなご家庭でした。何より、三浦さんがのり子さんの創作活動や交友を日だまりのように温かく見守られているところがたまりませんでした。

本当にうらやましかったです。
芦花公園エリアの美しい景色がぼんやりしてしまうぐらいでした。

残念なことに、三浦さんはのり子さんが48歳か49歳のときにがんで亡くなりました。
それからのり子さんは韓国語をマスターして、じぶんで韓国の詩を訳し、紹介することに力を注ぎました。新たな道を切り拓いたのです。

のり子さんは79歳でこの世を去りました。

その間、のり子さんはずっと三浦さんを思い詩を書き溜めていました。それは人目に触れることなく月日を重ねていきました。じぶんの生前は刊行しないでほしい、と伝えていたそうです。

のり子さんが詩を溜めていた箱も展覧会に出されていました。私はそれをしばらく眺めていました。

〈真実を見きわめるのに
 二十五年という歳月は短かったでしょうか
 九十歳のあなたを想定してみる
 八十歳のわたしを想定してみる
 どちらかがぼけて
 どちらかが疲れはて
 あるいは二人ともそうなって
 わけもわからず憎みあっている姿が
 ちらっとよぎる
 あるいはまた
 ふんわりとした翁と媼になって
 もう行きましょう と
 互いに首を締めようとして
 その力さえなく尻餅なんかついている姿
 けれど
 歳月だけではないでしょう
 たった一日っきりの
 稲妻のような真実を
 抱きしめて生き抜いている人もいますもの〉

『歳月』引用は前記より

切ないです。
一緒に歳月を重ねきることがかなわなかった。

25年はそれほど短い時間ではないです。その間に出会ったり別れたりを何度も繰り返すことができるほどの時間です。
でもふたりにとっては、あっという間だったのかもしれません。

のり子さんの喪失感が強烈に迫ってくる一編があります。他にも日常の、穏やかな詩がたくさんあるので、こちらを引用するのは反則かもしれません。
でも、私はこちらにたいへん打たれました。

〈獣めく夜もあった
 にんげんもまた獣なのねと
 しみじみわかる夜もあった

 シーツ新しくピンと張ったって
 寝室は 落葉かきよせ籠り居る
 狸の巣穴とことならず

 なじみの穴ぐら
 寝乱れの抜け毛
 二匹の獣の匂いぞ立ちぬ

 なぜかなぜか或る日忽然と相棒が消え
 わたしはキョトンと人間になった
 人間だけになってしまった〉

『獣めく』引用は前記より

 私はこの詩を見て、
「ああ、ふたりはつがいだったんだ」と思いました。夫婦とか恋人とかいうだけではない。
ましてや、運命の人とかソウルメイトでもない。
つがいだった。

それなので、
相棒がいなくなったことは、
のり子さんにはこのうえなくつらいことだったでしょう。

人を愛し抜くということ。

この選詩集にはさきに書いたように、のり子さんが亡くなるまで公になることがなかった、『歳月』という詩集から多くが採られています。愛について考えたいときに、パラパラとめくってみようと思います。

⚫今日の一曲

おそらくおふたりもご存じだったであろう1曲を。
エディット・ピアフ『愛の賛歌』

この曲はピアフが飛行機事故で亡くなった恋人マルセル(ボクサーだったかと)のことを思って歌った曲です。
晴れ晴れとした気持ちで歌ったのでは決してありません。
愛する人の永遠の不在に打ちのめされ、懸命に耐えていたのです。
相当荒れたようです。お酒やそれに輪をかけたようなものに溺れ、果ては降霊術に熱中したという話も読んだ記憶があります。
その後この曲を歌ったり、結婚したりして痛みはいくぶん和らいだのでしょう。それでも、ぽっかり空いた穴は最後まで埋まることがなかったのかもしれません。
つがいの相手がいたら、しあわせ。
ともに年老いていけるなら、もっとしあわせ。
そんなふうに思います。

今日は愛についてでした。

それではまた、ごひいきに。

尾方佐羽



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