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【世界遺産・短編小説】「幸せな週末」前編


明治日本の産業革命遺産ミステリー小説
新人ミステリー作家の登竜門『このミステリーがすごい!』大賞受賞者をはじめとした新進気鋭のミステリー作家たちが、世界遺産「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の地を実際に訪れて短編のミステリー小説を書き下ろし。広域にまたがる構成資産を舞台とした物語をミステリー作家陣が紡いでいきます。
ものづくり大国となった日本の技術力の源となり、先人たちの驚異的なエネルギーを宿す世界遺産を舞台にした不思議な物語を通じて、この世界遺産の魅力をより多くの方に感じていただき、価値が後世に繋がっていくことを願っています。


「幸せな週末」

岡崎 琢磨

 その日は誕生日だというのに、私は朝からイライラしていた。
 土曜日、夫と息子のために朝食を用意していた時間帯のことである。寝間着姿でキッチンにやってきた小学四年生の秀吾しゅうごが、まぶたをこすりながら言ったのだ。
「お母さん、ジャー坊のキーホルダーなくした」
 ジャー坊というのは、私たちが暮らす福岡県大牟田おおむた市の公式キャラクターである。炭鉱の町として知られる大牟田らしく、黄色いヘルメットをかぶり、つるはしを持ち、全身真っ黒の肌に青のオーバーオールのようなものを着ている。つぶらな目と赤いたらこ唇が特徴的で、顔の両脇にはトゲのようにはみ出した部分があり、大蛇の化身らしいが私には沖縄のシーサーを彷彿ほうふつさせる。
 大人の私から見ると何ともユニークなキャラクターだが、妖怪ウォッチなどで知られるゲーム会社レベルファイブの制作とのことで、やはり子供心をつかむのが上手なのだろう。秀吾は近所のショッピングセンターで見つけたジャー坊のアクリルキーホルダーをいたく気に入り、私に買わせてからというもの、みずから名前を書いて肌身離さず持ち歩いていた。
 その大事なキーホルダーを、息子はなくしてしまったのだという。
「もう、どこでなくしたとね」
 完成した目玉焼きを皿に載せながら、私は問いただす。
「わからん。昨日、みんなで探検ごっこし始めたときはまだカバンについとった」
 答える秀吾は半べそである。
「探検ごっこって、どこ行ったと」
宮原坑みやのはらこう
 宮原坑は大牟田市南部に位置する、明治時代から昭和にかけて日本の石炭産業を支えた三井みつい三池みいけ炭鉱の坑口こうぐちである。
 二〇一五年七月、「明治日本の産業革命遺産」がユネスコの世界文化遺産に登録された。明治時代の半世紀ほどで日本の工業が大きく発展した歴史を物語る遺産群で、登録された資産は八県二十三箇所に及ぶ。

「明治日本の産業革命遺産」は製鉄・製鋼、造船、石炭産業の三つに分類され、大牟田市からは宮原坑、三池炭鉱専用鉄道敷跡、三池港が石炭産業にかかわるとして世界遺産登録された。なお、同じく世界遺産となった熊本県荒尾あらお市の万田坑まんだこうも、その広大な土地の一部は市境を超えて大牟田市にまたがっている。地元大牟田市のタウン誌を作る仕事をしている私にとって世界遺産登録は誇らしく、業務の関係で三池炭鉱についてしっかり学んだので、いまや観光客のガイドも務まる程度には詳しいと自負している。
 そんな世界遺産のうちの一つ、宮原坑までは、わが家から自転車で東に十五分も走れば着く。小学生の放課後の行動範囲として、それほど突飛なわけではなかった。どうやら先日、学校の校外学習で宮原坑を訪れ、テレビゲームの中でしか見られないようなその独特な光景に、秀吾を含む子供たちは魅了されてしまったようなのだ。見学無料のはずだから、子供たちだけで行っても敷地内を見て回るくらいのことはできただろう。
 お味噌汁をおわんに注いで、はいこれ運んで、と秀吾に渡す。戻ってきたところで、私は言った。
「カバンにつけとったとに、なんでキーホルダーだけなくなるとね。あんた、またカバンを振り回したりしたっちゃないと」
 秀吾はあからさまにむっとして、
「そんなことしとらんって。なんでお母さんいつもぼくが悪いってすぐ決めつけると」
「あんたがなくすけん、いかんっちゃろうもん」
「誰かが勝手に外したり、リングが壊れたりしたかもしれんやん。それでも僕が悪いとね」
 息子はこのごろ、ずいぶん知恵が回るようになってきた。叱られると反論してきたり、怒られないためなら平気で嘘をついたりするので、私はたびたび神経を逆撫さかなでされる。
 小学生と本気で言い争ってもせんない。ため息をつき、私は訊いた。
「それで、秀吾はどうしたいと」
「お母さん、一緒に探して。一人じゃ怖いけん」
「お父さんに言えばいいやん」
「もう言った。お父さん、今日じゅうにせないかん仕事があるけん、行かれんって」
 その夫はいま、こちらの声が聞こえているだろうに、リビングでのんきに旅番組を見ている。そののんびりしたところが結婚前は好ましかったが、近年は平気で仕事を家に持ち帰るルーズさに閉口させられている。私だって平日は働きながら家事をしているのだから、週末くらい子供の面倒を見てもらいたいものだ。めったに子供を叱ってくれないから、なおさら私が息子を叱らざるを得ないのも腹立たしい。
 億劫おっくうさのあまり、同じキーホルダーを買って済ませようか迷った。けれども結局、それでは息子のためにならないと思い、私は告げた。
「じゃあ、朝ご飯食べて洗い物して、洗濯物干したら出かけるけん、それまで待っとき」
「わかった」
 秀吾はそっぽを向き、行ってしまう。感謝の言葉の一つもないことが、またしてもかんさわる。ついに四十代に突入したのに、いつになったら不惑と呼ぶにふさわしい人間になれるのだろうか。私は途方に暮れた。

 十一時ごろに家を出た。息子を車の後部座席に乗せ、宮原坑を目指す。
 外はよく晴れていた。駐車場に車をとめ、細い鉄橋を歩いて渡ると、上からは真っ直ぐに延びる三池炭鉱専用鉄道敷跡が見下ろせる。三池炭鉱の石炭を運ぶ大動脈として稼働し、宮原坑から万田坑と三池港を結ぶおよそ五・五キロメートルが世界遺産として保存されている。レールはすでになくなり、枕木だけが等間隔に並んでいるその鉄道敷跡は、違和感なく街並みに溶け込んでいた。
 宮原坑に到着すると、入り口の近くにきれいな尾羽の鳥がいた。秀吾が指差して言う。
「お母さん、カササギ」
 最近、息子は生き物図鑑をよくながめている。福岡県と佐賀県の一部で生息地が天然記念物に指定されているカササギを、ただちに見分けられるのはさすがだ。
「その調子で、キーホルダーも見つけんとね」
 私はそう声をかけ、古いコンクリート三角杭の柵で囲われた宮原坑の敷地に足を踏み入れた。

 宮原坑は明治時代後期より、三池炭鉱の主力として使われた坑口である。現在残っている第二竪坑が完成したのは明治三十四年のことで、主に排気や人員昇降に使われた。
 第二竪坑へと続く砂地を歩きながら、私は秀吾に問う。
「ここに着いたときまでは、確かにあったっちゃね」
「うん。水飲もうと思ってカバン開けたけん、おぼえとる」
 あたりをくまなく見回すが、ジャー坊のキーホルダーらしきものは落ちていない。週末だからか、それなりに人がいるのが気にかかった――たかだか数百円のキーホルダーを、拾って持ち帰る人がいるとは思えなかったが。

 まず向かうのは、遠くからでもよく見える第二竪坑やぐらである。ここに昇降機があり、人馬や石炭を積んだ炭車などを載せたケージを、地下から揚げ降ろししていた。
 危険のないように門が閉まっているので、この中に秀吾が入れたとは思えない。が、キーホルダーだけなら門の隙間すきまを通り抜けられる。私は近くに寄り、中をのぞき込んだ。
「この辺にはないごたるねえ」
 櫓の下、ケージが通っていた穴は、少し潜ったところで埋められていた。深さ百五十七メートルもあったという竪坑は、もはや見通すことができない。
 櫓のそばには、実際に使われていたケージも残されていた。全面がび切っていて時間の経過を感じさせ、中には短いレールがあり、炭車を載せていた様子が想像される。いかにも子供が好んで入りそうな屋根のある形状で、私は周囲を探してみたものの、やはりキーホルダーは見当たらなかった。
 左奥にはデビーポンプ室の北壁が見える。三池炭鉱の採掘に際しては、一トンの石炭を掘るごとに十トンもの地下水が湧出ゆうしゅつしたと言われ、その排水はきわめて重要な課題だった。そんな中、「三池炭鉱育ての親」とも言われる鉱山技師のだん琢磨たくまは世界最大の能力を誇るイギリス製のデビーポンプの導入を決定、これにより排水能力は飛躍的に向上し、三池炭鉱の出炭量を大きく伸ばしたそうだ。
 北壁のあたりを探るも、依然としてキーホルダーは見つからない。ふと目をやると、秀吾は足元の石ころを蹴飛ばすのに夢中になっている。
「遊んどるなら帰るよ! あんたが一緒に探してって言うたっちゃろうもん」
 叱っても、秀吾にこたえているようには見えない。どうして彼は、大事なキーホルダーを真剣に探そうとしないのだろう。子供らしい、と言えばそれまでなのだが。
 私たちは続いて第二竪坑巻揚機室に入る。先ほど見た櫓のケージを吊るすワイヤーは、この巨大なカタツムリのような二台の巻揚機によって操作されていた。機材はうかつに触ると危険であり、子供が気軽に立ち入っていいエリアとは思えないが、そういう場所ほど子供たちが好むことを、私はこれまでの子育てによって把握している。頭をぶつけたりしないよう気をつけつつ、隅々まで見ていった。
 けれども、ジャー坊のキーホルダーはとうとう見つからなかった。
「ほかに、どこ行ったか憶えとる?」
 私の質問に、秀吾は首を横に振った。
「あとは自転車で帰っただけやけど、カバンはカゴに入れとったけん、途中で落としたりはしとらんと思う」
 スマートフォンを見ると、夫からのメッセージが届いていた。
『昼飯、二人のぶんも用意したよ』
 時刻はすでに十三時を回っている。私はあきらめとともに言った。
「お腹空いたけん、もう帰ろ。これからは、大事なモノはなくさんごと気をつけるとよ」帰りの車中で、秀吾は一言も口を利かなかった。


後編へ続く

写真提供:福岡県観光連盟