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【世界遺産・短編小説】「幸せな週末」後編

 自宅に帰り着き、玄関を開ける。リビングに足を踏み入れた瞬間、私は息を呑んだ。
「何これ……」
 部屋の中は、折り紙の輪つなぎやリボンやモールなどで飾りつけされていた。白い壁には、英字のシールで〈HAPPY BIRTHDAY〉とつづられている。
「ママ、誕生日おめでとう」
 夫が私に、花束を差し出してきた。びっくりしつつ、私は受け取る。
「今日が四十歳の誕生日だろ。サプライズをしたかったから、秀吾に協力してもらって、ママを家から連れ出させたんだ。じゃないと、週末はなかなか外出してくれないからね」
 出身地の違う夫の標準語を聞きながら、私は驚きを隠せない。気になっていることが、口からぽろりとこぼれ出た。
「じゃあ、ジャー坊のキーホルダーは……」
「これのことかな」
 夫がリングに指を入れ、くるくると回す。まぎれもなく、私が息子に買い与えたのと同じキーホルダーだった。
「あんた、お母さんを騙したとね」
 秀吾は得意げにへへへと笑い、「まあねー」と言っている。
 朝から落ち込んでみせる息子にきつく当たってしまったことや、宮原坑でも息子を叱ったことを、私は激しく後悔した。彼は夫とともに私を喜ばせたい一心で、演技をしてくれていただけなのに。真剣に探すはずがなかったのだ、もともとキーホルダーはなくしていなかったのだから。
「ありがとうね、秀吾」
 私は膝をつき、秀吾をハグした。息子の高い体温を体いっぱいに感じ、正面では夫がキーホルダーを指からぶら下げたまま、満足そうに笑っていた。
 
 予定外の誕生日会は、円満に終わった。
 はしゃぎ疲れたのか、秀吾は二十一時にはベッドで眠りについた。そうなるのを待って、私は夫を夜の散歩に誘った。息子は小学四年生になり、もう一人でもお留守番できる年頃だ。おそらく朝まで目を覚まさないだろうが、念のためリビングに書き置きを残しておいた。

 目指したのは、三池港あいあい広場。三池港に作られた小さな公園のような広場で、昼間は地域住民や釣りをする人たちでにぎわっている。広場内には巨大ないかりや三池港の歴史を解説する看板、かつて閘門こうもんに使われたグリーンハートの木材などが飾られ、この時間帯はイルミネーションがきらめいていた。
 ベンチに夫と並んで腰を下ろすと、ハチドリに似た形をしている三池港の全容が一望できる。石炭を積み出すための港として團琢磨の主導で作られ、明治四十一年に開港した、令和の現代でも現役の港だ。有明海は潮の満ち引きが激しいため、閘門を設けて干潮時でも一定の水位を保つことで、一万トン級の大型船でも港に入れるようにしたそうである。
 夜の港に目を向ける夫に、私は何気ない調子で訊ねた。
「私このごろ、そげん秀吾に当たりが強かったかねえ」
「どうしてそう思うの」
やっぱり秀吾は、、、、、、、本当にキーホルダーをなくしたっちゃろ、、、、、、、、、、、、、、、、、、?」
 夫が隣で、ふっと息を漏らした。
「バレてたか」
「最初は私も騙されたとよ。だけん、秀吾をハグした。でもそのとき、あなたが持っとったキーホルダーが目に入ったっちゃん。それで、気づいた」「同じキーホルダーだったのに?」
「名前がなかったもん。秀吾が自分で書いたはずの、名前が」
 そこまでは、用意できるわけがなかったのだ。なぜなら秀吾は、私と行動をともにしていたのだから。
「今朝、秀吾がキーホルダーをなくしたって相談してきたとき、あなたは秀吾が私に怒られるって思ったっちゃろ。あなたが一緒に探してやることも、新しいのを買ってやることもできたけど、それじゃ結局、なくしたことに変わりはなかもんね」
 否定の言葉は聞こえない。
「だけん、あなたは私たちがキーホルダーを探しよるあいだに、新しいものを買ってきて、リビングを飾りつけすることで、秀吾がキーホルダーをなくした事実そのものを隠蔽いんぺいしようとしたっちゃろ。私の誕生日は、いわばそのために利用されたに過ぎんやった」
「誕生日をお祝いしたかったのは、本心だけど」
 夫はばつが悪そうにしている。
「いつの間に、その案を秀吾に持ちかけたと?」
「朝食後、きみが洗濯物を干したりしてるあいだにこっそり、ね」
「なくしたキーホルダーが宮原坑で見つかったら、どうするつもりやったとね」
「どうもしないさ。前日のうちに秀吾に仕込ませたことにするだけだ」
 夫の頭の回転のよさには感心させられる。けれど、彼の真の目的を知ってしまった私は、ショックを受けていた。
「秀吾がかわいそうやけん、かばったとよね……私あの子のこと、怒ってばっかりやった? 父親として、かばってやらなと思うくらい。ねえ、私そんなにだめな母親やったかねえ」
「そうじゃない」
 穏やかな彼にしてはめずらしく大きな声で、夫は言った。
「もう九年、子育てしてきて、つくづく思い知らされたけど。僕は、わが子を怒るのが苦手だ」
 夫が手の込んだことをしてでも息子をかばうような優しい人であると、私はよく知っている――その優しさが、子育てにおいて必ずしもプラスにばかりはたらかないことも。
「その役割をいつもきみに押しつけてしまって、申し訳ないと思ってる。こんなときに限って、子供の味方をするいい父親を演じるのは、子育てのおいしいところだけをかすめ取る振る舞いだ。きみがあの子の母親でいてくれるから、僕も父親でいられている。そのことに、僕は深く感謝している」
 そんなことを言われたのは初めてだった。私は家庭における夫の態度に対し、日ごろから不満を抱いていた。しかし、夫のほうでも引け目を感じているとは考えもしなかった。
 とはいえ、それでショックが癒えたわけではない。言いたいことはいっぱいあった――しかし、だからこそ私は痛感させられた。
 私たち家族は、もっと話をすべきだったのだ。こんな、相手を騙すような方法ではなく。言いたいことがあるならきちんと伝え、相手の考えにも耳を傾け、互いを知ろうとする努力をすべきだった。
 海の向こうに、町の明かりがぼんやり揺れている。広場の奥にある高速船の待合所を振り返りながら、私は言った。
「明日、三人で島原に行って温泉でも入ろっか」
「唐突だね」夫は驚いてみせる。
「私の誕生日なんやけん、好きなようにしてよかろ? 日帰りもできるっちゃし」
 三池港には、島原と大牟田を結ぶ高速船が発着している。五十分で行き来することができ、一日に四便あるので使い勝手もいい。
 行き先はどこでもよかった。ただ、家族三人で過ごす時間が欲しかった。
 明日はたくさん会話をしよう。そして、自分とは違う夫と息子という人のことを理解できるように努め、同時に私自身のことも二人に知ってもらおう。
「もちろんだよ。行こう、島原へ」
 四十代最初の週末を幸せに過ごすためのプランが決まり、私はベンチから立ち上がる。夫の冷えた指先を、そっと握った。




岡崎 琢磨(おかざき・たくま)

1986 年、福岡県生まれ。京都大学法学部卒。
2012 年、第10回『このミステリーがすごい!』大賞・隠し玉に選出された『珈琲店タレーランの事件簿 また会えたなら、あなたの淹れた珈琲を』でデビュー。翌年、同作で第 1 回京都本大賞受賞。
同シリーズは累計 250 万部を超えるベストセラーに。
その他の著書に『Butterfly World 最後の六日間』(双葉社)、『夏を取り戻す』(創元推理文庫)、『春待ち雑貨店 ぷらんたん』(新潮文庫)など多数。



写真提供:福岡県観光連盟