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意識と自我と心って何なのかな

意識とは身体や脳の神経伝達のために偶然、
意図せず生まれた奇跡なのかも知れない。

なぜなら人間という生物は
それ自体活動するのに十分な機能を備えている。

外部刺激を脳が処理し身体を動かす。
喜怒哀楽の感情表現すら
脳の機能によって表現されている。
まるでコンピュータのプログラムを
実行するように自動的に行動する。
まるでアンドロイドだ。
別にアンドロイドを否定しているわけではない。
近い将来型ヒトのAI搭載ロボットが
出来るのはほぼ間違いないだろう。

では、このオートマチックとも言える
人間の脳と身体になぜ意識が芽生えたのか?

これは自分の考えなので裏付けはないが、
想像を超えるスピードで繁殖した人類は
あまりに数が増えすぎたせいで、
自分と他者を明確に区分する必要に
迫られたからではないだろうか?
この意識のおかげで明確に自分とそれ以外の他者という
区分がはっきりして「わたしという自我」にまで発達する。
「自我」を得た脳は次第に他者より自我を優先する事を
考え始めるのにそう時間はかからなかっただろう。

人間も地球に生まれた生き物であることに違いはない。
大昔は人類も他の動植物と同じようにデザインされた
DNAの本能に従い地球上の全ての物と
調和して生きてきたはずだ。
そこは自我など必要とせず成すべき事を成し
コミュニティを作り調和のとれた生き方があったと思う。
この頃は地球規模の全体感覚のような感じを
誰もが持ち、すべてに備わっていたんだと思う。

しかしこの「わたしという意識」が
脳の機能をさらに進化させ、
自己の利益の追求や、
価値を上げるための情報収集をし始め、
自分がどのくらい幸福か不幸か、
他者と比較し始める。
これが現代の自分たちの有り様だと思う。
そしてもともと持っていたはずの「全体感覚」だけが
脳のプログラムからはじき出されてしまった。
はじき出された感覚は「こころ」と呼ばれる。

本来、身体に一つであるはずの「意識」が
脳が操る「自我」と、
本質的な全体感覚を持つ「こころ」とが
同時に存在するといういびつな不安定な状態になった。

例えば「悲しくて涙が出る。」
これは脳が悲しいと言う信号を神経伝達した結果、
涙が出るという身体現象を引き起こしている。

では「悲しくて胸が痛む」とはなんだろう。
悲しくて痛む臓器などどこにもないのに、
胸の辺りが苦しく感じるのは
脳ではなく「こころ」だと思う。
しかし「こころ」という器官は体のどこにもない。

そして脳の支配から離れているためコントロール出来ない。
そこに葛藤が生まれる。
嘘、誤魔化し、欺き、現実逃避、脳はあの手この手で
「こころ」を支配しようと惑わしてくる。
そのせいでメンタルの不調が起きる。

自分は「こころ」とは、
自分の体に二重写しになったホログラムのような
半透明のエネルギー体ではないかと思っている。
実体がないのになぜ痛みや苦しみを感じ、
また傷ついたなどと表現されるのか?
また「愛」についても不思議に思う。
人間は小さき者、弱き者、産まれた者に対し、
慈しみ育み、大切に守るよう脳にプログラムされている。
子孫を残すための古の記憶だ。
しかしただそれだけではないのが「愛」だ。
脳のプログラムから逸脱した
「愛」が存在するのも事実だし、
色も形も匂いもない感情の電気信号
と言うだけでは計れない。
人の愛がどこに、何に向けられるかは
きっと自分の脳ですら予測できないのだ。

私たちが脳による支配だけで生きているのなら
ミスも失敗も恐れることはないし、
誤りは修正してまた行動するという
実に単純明快で非常に楽に生きてゆける。
喜怒哀楽ですらただのコミュにケーションツールであり、
その場にあった感情を表すだけでいいから
後に引きずる事もない。
反省や後悔すらプログラムだ。
次に失敗しないための情報の蓄積だ。

しかし「こころ」は人間のただのプログラム
でしかない脳の働きの「感情のゆらぎ」を拾う。
脳が切り捨て必要ないとみなされた
小さなカケラを拾うのだ。
何のためかは分からない。
このまったく合理的でない「こころ」のおかげで
かろうじて人間は自分が人間であり
自分という個であることを自覚しているのだ。
同時に脆くて儚げな感情、様々な物に向けられる愛情、
他者の感情に触れることができ、共感力も強い。
「こころ」の持ちようで肉体や精神(身体と脳)を
弱くも出来るし強くも出来るパワーを秘めている。
実体を持たない心は、
傷ついたと感じても傷などつかない。
悲しみの感情を痛みと捉えているのだ。
胸が苦しくなると感じても実際の臓器に損傷はない。
ただ辛い感情を痛みと捉えているのだ。
「こころ」が温かく感じるというが、
実際にどこかが温まるわけではない。
ただ陽だまりのような温もりを思っている。

自分の身体や脳に起きた実際の出来事によって
こぼれ落ちた「感情のゆらぎ」によって
その人の「こころ」が育つ。
「こころ」はどんな制約も受けないので
「こころ」の有り様は、
本体である身体や脳に影響することがある。
善悪の区分は時代や環境、
人によって違うので分からない。
生きている間に経験する全ての事を
「こころ」に刻んで自分のこころはいつか
肉体を離れ自由になるだろう。

科学やスピリチュアルを学んで分かったことは、
自分がぼんやりとそうじゃないかなーと思っていたことが、
やっぱりそうだったのかと思ったのと、
こんな事考える自分は馬鹿馬鹿しいと思うこともあったけど、
結果概ね合致していたことに満足した。
まだまだ明確ではない部分も多いが、
科学もこころもいくら掘り下げても
あまり意味がないように思えてきた。
次々に新しい知識を得ても
それは昔からある考えやまじないと
あまり違わないんじゃないかと思う。
まるでオニオンのようだ。

人間はおそらく皆知っているのだと思う。
忘れたか思い出せないだけで。
もしかしたら人間の本質は肉体や脳ではなく
エネルギー体「こころ」のほうなんじゃないかな

だとすれば、今のこのカラダは実体を持った
仮の姿と言うことになる。
これはもしかしたらとんでもなく
幸運な事なのかも知れない。
実体が持てないのが普通の世界で
自分は実体を持てたんだとしたら、
なんだか少しワクワクするな。
色々やってみるのが正解かも知れない。
もっと好きにやってみていいんじゃないかな。
このカラダがあるうちに。。


今日も読んでいただいた方ありがとうございます。

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