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妻の故郷めぐり 神戸~福山~舞鶴 2022秋

妻はジプシーだった。親が転勤族なので甲府で生まれ、大阪、神戸、津、舞鶴、福井、浦和、福山、東京と住処を変えている。結婚してからは相模原にちょっとだけ住み、その後28年間は横浜に住んでいる。

だから妻の訛りは出自不明だ。我が家ではピノコ語ならぬピロコ語と呼ばれている。アッチョンブリケ。独特のイントネーションがあり、ハマの人ではないことは分かるのだが、どこの出身かは皆目見当がつかない。

2022年秋、妻が勤続30年で2週間の休暇をもらった。コロナのため海外はパス。国内で行ったことが無い、本州の西端へ向かうことにした。ゴーゴーウエスト、なまかと天竺をめざせ!角島だけど。

時間はたっぷりあるので、23歳の愛車スワン号でポタポタ出かけることにした。スワン号は旅の途中で総走行距離111111kmを迎えた。

妻は若いころから昔話が好きだった。いや、昔話と言っては少々失礼かも知れない。あちらこちらで暮らしていたので、それぞれの土地での話をすることが多かった。家族はもう耳タコだ。

そして、住んだ土地それぞれに思い入れがあった。私の長期出張中には福井へ一人旅をしていた。家族旅行で鳥羽に出かけたときは、津で住んでいた家や幼稚園を探していた。見つからなかったけど。

今回の旅では、妻の故郷をいくつかめぐることにした。旅の途中で思い出に浸る時間をしっかり確保。妻も思った以上に楽しみにしてくれて、昔の住所などを確認していた。

最初の故郷は神戸。義妹は芦屋生まれらしい。お嬢さまだったんだ、ギマイ。

妻はまだ幼稚園に入る前だったので、記憶はあやふやだ。住所だけが頼りだったが、それらしい所には辿り着けなかった。

震災の影響かも知れない。いや、震災が無くても、55年も経てば街並みも変わるだろう。
予期していたのか、記憶がほとんど残っていない所為もあるのか。妻はさほどがっかりする様子もなく、神戸観光を楽しんだ。

次の故郷は福山。ここで妻は女子高生だった。

まずは、妙に自信満々な妻について母校へ。なんと妻の同級生が校長になっていて、すでにアポイントを取ってあった。残念ながら校長は外出だが、分かるようにしておくので、中を見学して行ってくださいとのこと。

門につくと、妻は自信を顔に滲ませて警備のおじさんに話しかけた。しかし残念なことに、なかなか話が伝わらない。聞いていると、おじさんもかなり訛ってる。そしてピロコ語は伝わらない。やっぱり福山弁でもなかったのか。いったいどこで通じるんだ?ピロコ語。

高校は、最も思い入れがあった食堂が建て替えられていた。それでも校舎は当時のものだったので、懐かしくて2周位歩いた。みんな気持ちよく挨拶してくれるので「ピロコはこうちょちぇんちぇーのともだちなのよさ」と鼻を高くする妻。いや、それ違うから。

学校からほど近い下宿は、すぐに見つかった。妻が高校に入ると、家族は次の街へ引っ越してしまったため、ひとり下宿暮らしになったそうだ。

外壁は鮮やかなブルーに塗り替えられていた。妻はそれでも自信満々に尻を振って、ここ掘れワンワンと吠えていた。青春の記憶って密らしい。

いまは下宿をやっていない様子だった。それでも外階段を上って、住んでいた部屋へ向かおうとする妻を慌てて止めた。気分はすっかり女子高生のようだったが、今やただの怪しいおばさんである。

妻が下宿に入る前に住んでいた家は神社の目の前で、場所は確かなのだが家は建て替えられていたようだ。家が無くなっていることに妻はかなりガッカリして、同じ場所を4往復くらいしては、恨めし気に新しい家を覗いていた。中の人に通報されないかドキドキだった。

妻の気分は女子高生だったが、今はすっかり別の街になっていた。あたり前だけど。

最後の故郷は舞鶴。妻が小学生のときに住んでいた街だ。

旅の途中で寄った萩の明倫学舎で「ピロコのチョ~ガッコこんななのよさ」と自慢げに話していた妻は、鉄筋コンクリートに建て替えられた校舎を見てアッチョンブリケ全開だった。校門だけは舞鶴百撰として残されていたのが、せめてもの救いだった。

それでも舞鶴には、懐かしいアーケード街も、義妹が通っていた幼稚園も生き残っていた。良く遊んでいた公園では、当時を思い出して石垣を上るポーズを決めこんだ妻を写真に収めた。「この壁は登れたんだ!」と言い張っていたが、今の妻からはとても想像できない。

そして神戸、福山とめぐり、3つ目の街でついに、住んでいた家を見つけることができた。その家はなんと…

…売りに出ていた。一目散に不動産屋へ向かおうとする妻を窘めた。遠い異郷の地で不動産屋さんを冷やかすってのは、あんまり良い趣味ではない。まあ、ちょっと中を覗いてみたくはあったけど…

家が見つかり、ご機嫌になった妻は、「向かいの床屋に入り浸ってお菓子をたかってたんだよ~」とか、「屋根を伝って隣の家に渡ってしこたま怒られたな~」とか、何十年振りかの新ネタをマシンガンのように繰り出してきた。

初めて聞く話ばかりだった。どこの隠れメモリに入っていたのか。人の脳って、どんだけのことを覚えているんだろう。
思い出を語る妻の横顔は、幸せそうだった。

何はともあれ、3つ目の街では記憶のかけらがたくさん繋がった。
何十年か前、小学生の妻は確かにそこに生きていた。

旅を終えて妻はご満悦だった。運転できない妻を助手席に、3000km走った甲斐があったというものだ。

妻は実家で義母にスマホの写真を見せ、昔話で大いに盛り上がっていた。義父は、当時のことをあまり覚えていない様子で、ほとんど蚊帳の外だった。ギフの記憶には、どんなところに住んでいたかより、どんな職場でどんな仕事をしていたかが残っているのかも知れない。


妻に聞いてみた。

「今まで住んだところで、どこがいちばん好き?」
「舞鶴!」

即答だった。「家族が一番平和で幸せだったから」とも言っていた。妻と義兄が小学生、義妹が幼稚園の頃。まだ親子の大きな衝突もなく、受験のような面倒もなく、穏やかな、幸せなひとときだったんだな。

そういえば、最近老け込んだ母は、口を開けば兄弟姉妹の話ばかりするようになった。息子としては、子供である自分や、父である夫の話が出てこないのは少々寂しくもあるが、兄弟姉妹の話をするときの母は、穏やかで楽しそうだ。母も小さい頃に過ごした街を愛しているのかも知れない。

私はと言えば、少しの中抜けを除けば半世紀以上、横浜の片田舎に住んでいる。だから良いことも嫌なことも、同じ街での出来事だ。

けれども、小学生の頃、ここは別世界だった。
街のすぐ隣に深い森があり、沼があった。

学校帰りにたけのこを掘り、家でその皮に梅干しを挟み、それをチューチューとすすりながら、マッカチンを捕まえに出かけた。夜になると、街灯に激突したカブトムシが、わらわらと降ってきた。ものの数分で虫かごはいっぱいになった。

休日には、亡父と自然薯を堀りに出かけた。弦を見つけ、用心深く、深く芋のまわりを掘り進んだ。弦を見つけた時の父は、少し自慢げだった。芋を掘りだしたときの父は、さらに得意げだった。途中で折れてたけど。

こんな記憶が、森の木に名前を刻んでいたように、心の奥にたくさん刻まれているはず。

今住んでいるマンションは、小学生のころ、観察用のミジンコを集めていた田んぼの上に建っている。

昔の街は懐かしく、美しい。
あの頃のこの街は大好きだ。


残念なことに、私の好きな横浜も、妻の好きな舞鶴も、今はない。だからこそ、その街をこよなく愛しているのかも知れない。

もちろん場所だけの話ではない。むしろ当時の家族、周りの人々が大切だったんだ。

街が好き、そばにいた人が好き。そしてその頃の自分が好き。
たぶん未来の自分は、今、住んでいるこの街を愛しているに違いない。


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