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裏拍の人間は、犬の「横目」に教訓を得る

わたしは、大半の人が表拍のリズムのところで、裏拍をとっているところがある。「タンタンタン」のリズムが大半を占める場で「ンタンタンタ」のリズムで揺れている。
リズム感が悪いというより、間が悪いのだと思う。

裏拍の人間は、見なくていいものを見てしまうことがある。
仲良くしていた友人グループの一人が、別の人の背中に冷たい視線を送る瞬間とか。
なにかのきっかけで仕事仲間がついている嘘に気づいてしまうとか。
気づかなくていいことに気づいてしまう。

アンラッキーなことは基本3段重ねでやってくるし、理不尽なことに遭遇することも抜群に多い。
もちろんその逆もあって、救われることもあるのだけれど。

友人には「そんなことある?」とか「ほんと、持ってるよね」と言われる。
たしかに芸人なら「持ってる」と呼ばれる特性かもしれない。でも、エピソードトークをさほど求めていない一般人には、正直いらんのだ。


先日の旅でもあった。
宿泊先のゲストハウスで夕食をとることにしていた。
オーナーが鳴らすトライアングルが夕食の合図という、アットホームなゲストハウスの食堂だ。

トライアングルの音とともに食堂に入ると、「農家の料理」と称されたローカルなメニューがビュッフェスタイルで並べられていた。
日本でもドイツでも見かけない料理をながめ、ふと視線をはずすと、厨房と食堂をつなぐドアが目に入る。
その丸窓から、おばあさんがこちらを睨んでいた。

その時近くにいたのは、わたしと夫のみで、気づいたのはわたしだけだった。

しばらくして、食堂にお客さんが幾分か集まったタイミングで、そのおばあさんが食堂へ入ってきた。
いつもそうと言わんばかりの優しい笑みで歓迎の言葉を述べたあと、丁寧に料理の説明をし始めた。
料理はお友達の家にお呼ばれして食べるような家庭の味で、ホッとする美味しさだった。

けれどその料理とともに思い出すのは、おばあさんの「睨み」だ。
ただ料理づくりで疲れていただけなのか、何かを疑われたのか。ヨーロッパには本当に必要なときしか笑わない人も多いから、真顔の目つきがちょっと鋭かったという可能性もある。
しかしどれだけ考えても、わたしが勝手に決めつけない限り、答えは出てこない。

いらんものを見てしまったな、と思った。


こういう間の悪さで知ることで厄介なのは、記憶に残ってしまうことだ。
親しい友人や家族なら理由を聞くこともできるけど、一度しか会わない人や、そこまでの関係でもない人にあえて聞くのもな、と思う。
わたしの勘違いならまだマシで、下手すると相手の不都合な事実を明るみに出してしまう。恨みを買うことにも、ケンカを売ることにもなりかねない。
そんな売買はしたくない。
わたしは平和にいきたい、平和に。

あと、「こうだったんじゃないか?」と考えることはできるけれど、それは本当の答えじゃない。
悲しい出来事にしたければ、わたしが悲劇のヒロインのように見えるよう、ちょっと鋭利な尾とひれをつける。笑い話にしたければ、ちょっとポップなテイストの尾とひれをつけるだろう。
「おばあさんが、『家政婦は見た!』ばりの視線でこっち見てたんっすよ! 一瞬、市原悦子が降臨したかと思いましたわ」みたいなね。

勝手に想像で尾ひれをつけ、感情が揺さぶられるのも、なんだか時間のムダ遣いな気がしてしまう。

とはいえ半月以上たった今も消えないので、先のおばあさんの視線は「つまみ食いしにきたと勘違いされた」と思うようにしている。
ゲストハウスに合わせて、アットホームで可愛らしくしてみた。
どうせ想像でしかないのだから、自分に都合よく(?)思っておく。


世間一般的には、「知ることはいいこと」とされている。
たしかに世界情勢とか社会問題とか、政治とか金融とか、「社会人として知っておくべき」みたいなことはある。
SNS内の常識やトレンドやニュースが、テレビや新聞などのオールドメディアで取りあげられることも増えた。
だからなおのこと、早めに知っておくことはなんとなく優位に立った気持ちになれるというのもあると思う。だから余計に知りたくなる。


でも、知らなくてもいいことも結構あるよな、と思ったりもする。
わたしがときどき遭遇してしまうこともそうだし、有名人がこう言った、ああ言ったとか、誰かとトラブルを起こしたとか。
その有名人が好きなら別だけれど、さほどの人なら本当にいらない情報だ。

目を開けてるだけで次々と情報が入り込んでくる今、「見ない」ということの大切さを感じることも多い。


コナンくんだって、黒の組織の取引を見なかったら、小さくなることはなかった。
「お前は知りすぎた」とドラマや映画でらてしまった登場人物は、今まで何万人といるに違いない。

現実で命を奪われるまでのことはないにしても、知られる側も知る側も、利益にならないことが多い。
しかも知った以上、意外と無視できないことも多い。

「知る」って結構、両刃なのだ。
知識や教養と呼ばれるものはともかく、「情報」と言われるものはとくに。


先日、犬に触れる機会があった。
これも同じゲストハウスのことなのだけれど、そこには犬が3匹、猫2匹が飼われていて、お客は一緒に遊んでいいようだった。
ドイツに来てから動物と触れ合う機会がなかったので、食事の後にさっそく犬に近づいてみた。

あっというまに、犬のひらきを作りましたぜ

一頭の犬はとても人懐こく、少し撫でたらすぐにお腹を見せるような子だった。するともう一匹の犬が、飼い主からもらったらしい骨(たぶん羊)をくわえてやってきた。

遊んでほしい、撫でてほしい。けれど信用できる人間かはわからない。
そんな気持ちからか、近づくけれど目を合わせず、横目でこちらを見てきた。

犬の気持ちについては詳しくはわからないけれど、この横目、知らんぷりを決め込むときや警戒するときにする仕草だと思う。
あとは撫でてもらってても、心からは信頼しきってないときも目を合わせず「横目」をする。

目は合わせない、けどこちらを意識している。

こちらは序盤の「ぼくはただ骨を食べてるだけです(チラ見)」の仕草

旅行の写真を見ながらおばあさんを思い出していたとき、ふと、わんこの「横目」がわたしにも必要かも、と思った。
欲丸出しや、隙だらけのままでいない、もうちょっと警戒する。
すべてが安全と信じ切り、なんでもかんでも自分の内へ入れる姿勢への警鐘のように感じた。

不都合なことから目を背けるのとは違う。
助けを求める人を無視するとか、見て見ぬふりをするというのとも違う。
「除外」というより、「集中」に近い感じだろうか。

ドイツで暮らし、ヨーロッパを旅していると、この力が備わっている人が多いなと思う。いい意味で視野を狭くできる人が多い。
多分周りが自分とまったく違う感覚で行動している場合が多いし、文化や習慣がまったく違う人だらけだから、いちいち気にしていたら生活できないのだと思う。
だから横目くらいで意識しておく以上はせず、明らかに度を超えていたり、自分に迷惑を掛けられそうなときだけ、ちゃんと見てめっちゃ怒る。

自分に危険が及ばず、必要だと思うとき以外は、むやみに見ない、関与しない。多少の警戒心を持つ。
一見、薄情に見えるかもしれない。でもずっと見ていて、迷惑を掛けてるわけでもないのに、なにか言われるよりはいいのかなとも思う。

もちろん自分の主観を理由に、相手をコントロールしようとする人はドイツにもいる。けれど、日本のお互いがお互いを監視してもやもやする、結果お互いが苦しくなっていく、みたいなことはあまりないように思う。


わたしが気づいたのはいじらしいわんこの仕草からだったけれど、ヨーロッパで生活していると案外普通なことだ。

なんでもガバガバと情報を得る姿勢は、むしろ警戒心が少し足りないのかもしれない。
感情が揺れやすい人はなおのことだ。
無料だからといって何でも食べてたら健康を害すのと同じで、情報にも節度と関わり方がある。
ちょっとしたメリットに、人生の貴重な時間を奪われてはいけない。


もし自分が裏拍の人間なら、それを理解して、もう少し気を引き締めていたほうがいいのだと思う。
馬が視野を狭くするためにつける「ブリンカー」のように、ときには視野を意図的に狭くするのもいい。
大事だといわれる「視野が広さ」は、物理的な話でも物量的な話でもなく、知ることで考えたり気づいたりしたところにある。つまり「情報の先」だ。
ただ見て知っていれば、視野が広くなるわけじゃない。

そしてみんな同じじゃないのだから、みんな同じ情報を持っている必要はない。知ってたり知らなかったりして、見え方がそれぞれ違うのが、むしろ普通だ。
そして大抵、情報にも人にも、自分が知る以外の側面がある。それも踏まえて、自分が知っておく必要があるか、見極めるのが大切なんだろうなと思った。


わたしが「裏拍体質」なのは多分一生直らないけれど、ブリンカーで見える情報を減らすことはできる。そして何でもかんでも見よう・知ろうとしすぎないこともできる。
ほんの少しだけ身構えるだけでも、ムダな被弾は避けられると思うのだ。

その心構え一つで感情が揺れることも減りそうだから、日本へ戻ってからも、心にとめておきたいなと思っている。
モヤッとすることは、減れば減るほど、自分のしたいことに集中できる。

自分の見たいものを見て、やりたいことに集中しようとしても、バチは当たらない。よそ見ばかりして他人の足を引っ張るよりも、よっぽど価値があるとわたしは思う。
わたしはもっと、なにかに夢中でいたいのかもしれない。

アイスランドの夢中になれるような景色

ちなみに、「横目」で見ていたゲストハウスのわんこは、数分後、骨をくわえたまま近づいてきて「撫で」の催促をしてきた。
どうやら「こいつは大丈夫そうだ」と思ったらしい。

撫でるとテンションが上ったのか、飛びかかってきた。
わたしは尻もちをつきつつ、全力で撫で倒しておいた。楽しかった。
この犬独特の距離の詰め方、やっぱりいいなぁと思ったのだった。

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