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思い上がりの青空に

大変お恥ずかしい話なのだが、今も、両親からお年玉をもらっている。
社会人になってからもずっと。今年も。

四十路を過ぎた娘が、七十代の親からお年玉をもらう。
定収入のある娘が、年金暮らしの親からお年玉をもらう。
都心で気ままに暮らす娘が、地方で慎ましく暮らす親からお年玉をもらう。
どこをどう切り取っても、世間的にアウトなのは明確だ。

毎年、「もういらないよ」と断ろうとするのだが、「いいからいいから」と強引に握らされる。「あげられるうちは、あげたいから」と。

もちろん、もらうだけでは申し訳ないので、私からもあげることにしている。頑固な母はなかなか受け取ってくれないので、父が一人の時を狙ってこそっと渡す。私が帰った後に母に伝えるようお願いしているので、父は毎年「なんで受け取っちゃうのよ」と叱られているらしい。

とはいえ、もらうのも、渡すのも、いつもだいたい諭吉さん二枚。
同じような額が親子の間で行き来するだけで、結局は「往って来い」になってしまっているのだった。

今年のお正月、私は考えて、その額を変えた。
子どもたちが帰省することで食費や光熱費は一時的に上がるし、準備などで何かと手間もかける。気力的にも体力的にもだんだんしんどくなるだろうに、毎年歓迎してくれるのは本当にありがたいことだ。
してもらうばかりではなく、こちらからももっと返したい。離れて住んでいるので普段はなかなかできないが、できるときに、できることはしなければ。
そんな気持ちを表すために、私は諭吉さんをいつもの倍にし、どうせならキリがいいようにともう一枚足して、実家に向かった。

家族でのんびりと過ごすお正月も、両親からのお年玉も、いつも通りだった。
帰る日の朝、私からも父へそっと手渡す。中身が増えていることには気づいていないようだ。後から母とふたりで驚くかな。無事に渡すことができて私は満足し、新幹線に乗った。


車窓の景色が流れ始めてからしばらくして、母からLINEのメッセージが届いた。

お年玉ありがとう。
でもあんなにたくさん、申し訳ないです。
贅沢はできないけれど、
お父さんとふたり楽しく暮らしているから心配しないで。
あなたにお年玉をあげられることが、私たちはうれしいんだよ。

最後の一文を読んだ瞬間、ハッとした。しまった、と思った。
金額を増やせば喜んでもらえると考えた自分の傲慢さに、その時はじめて気がついた。今年も娘にお年玉をあげられたと喜べるはずだった両親のささやかな楽しみを、とても下品な行為で奪ってしまった。
ずっと「往って来い」で保たれていた幸せなバランスを、私はぶち壊したのだ。

飲んでいた缶ビールが、とたんに苦くなる。
自分の思いつきにいい気になって、受けとる側がどんな気持ちになるかまで考えていなかった。一方的な好意を押しつけて、自己満足しようとしていた。
私はなんて未熟だったんだろう。親の心子知らずにもほどがある。
「往って来い」ではなく、多くもらう側になってしまったことを知った両親が、どんな想いをしたか。困惑し、さみしそうにしている父と母の顔が浮かんできた。
ごめんなさい。
せっかく楽しいお正月だったのに、ごめんなさい。
申し訳なくて、悲しくて、涙があふれた。

母のメッセージには、続きがあった。
私が年に何回か送るビールや雑貨などでじゅうぶん助かっていること。
たまに会いに来てくれるだけでうれしいこと。
子どもが元気でいてくれることが、親にとって一番の幸せであること。
そして、今回のお年玉は気持ちとしてありがたくもらっておきます、とも。
「こんなことはもうしないで」という母の強い気持ちが、気遣いの言葉とともに綴られていた。

ああ、親には、どうやってもかなわない。思いやりも心の広さも、愛情も。
私の思い上がりを責めるどころか、やさしい言葉でそれを包みこんで、そういうことじゃないんだよと、静かに教えてくれた母。
私はいつもそのやさしさをもらってばかりで、いつまでたっても子どもなままだ。何も返せていない。

両親からもらったお年玉を取り出す。
母が包装紙でつくるポチ袋はいつも小さめで、三つ折りされたお札が窮屈そうにおさまっている。今年は薄い桃色だった。
この小さな袋の中に父と母が入れてくれたのは、とても大きくてあたたかくて、大切なものだ。今さらながらそれに気づいた私だった。


もちろん、うちの親の考え方だけが正しいとは思わない。
素直に喜んでくれる親御さんだって世の中にはたくさんいるはずだし、そうしてくれていたら、お互いこんな気まずい想いをすることもなかったのに、とも思う。
でも、うちは、そういう親ではなかった。
人の好意を受けとるのが下手で、融通が利かなくて、ちょっと面倒くさい、そんな親なのだ。そして私はどうしようもなく、そんな父と母の娘なのだった。

子どもが親にしてあげたいことと、親が子どもにしてほしいこと。それがぴったり同じになれば一番いいけれど、少しズレてしまう時もある。私は今回、そこを大きく読み間違えた。ふたりを大切に思っていることを伝えたかったのに、伝え方を間違って、傷つけてしまった。

なにが親孝行になるのか、決めるのは親のほうだ。
子どもにできるのは、どうしたら喜んでくれるのかあれこれ考えることくらい。いっぱしの大人になったつもりでも、こうして今も、親に教えられている。なんて浅はかで情けない大人だろう。
でも、だからこそ、考えなければ。
両親を大切に思うなら、ふたりが喜んでくれる伝え方で、その気持ちを伝えられるように。私はもっと考えて生きなくてはいけないのだ。

窓の外に広がる冬の空は、美しく澄んでいた。私を責めているかのような、鋭くまぶしい青さだった。
この痛みは忘れない。忘れてはいけない、そう思った。


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