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人が持つ看板について

10月。

僕は今、韓国の済州島に留学中。(写真はソウル)
済州島の10月は朝は寒くて昼は適温、夜はまた寒くなるという普通気候。(ソウルも同じでした)

それでもどこか日本とは違う空気が流れているような気もするし、その正体は日々僕が感じている高揚感や優越感、緊張感であるようなも気する。

フランス人のルームメイトと一緒に過ごし、デンマーク人の友達と英語で授業を受けて、語学堂では男女比1:9(しかも合計10人)のクラスで韓国語を勉強している。

こんな特異な環境が、僕の季節の見え方をおかしくしている。


10月といえば内定式の季節である。
来春に卒業を迎える学生は、内定式で何を感じたのだろう。

入社したら一瞬で昇進してやろうとエンジンがかかりすぎているやつもいれば、僕みたいにまだまだ学生をやりたいやつもいるだろう。

僕も来春に卒業する(見込み)。
だから、一旦帰国して内定式に行ってきた。

僕は外資のコンサルファームに就職する。

内定式にはAを専攻している学生がいればBを専攻している学生もいたし、C歳の人もいればD歳の人もいた。E国籍もいればF国籍もいたり、GャイアンファンもいればHークスファンもいた。

とにかくいろんな人がいた。

その中で印象深かった2人のことをちょっとだけ書いてみたい。





式の冒頭から、偉い人が続々と登壇していく。
1番初めに登壇したのはCOOだった。

鳥肌がたった。
その方は、僕の最終面接の面接官だったからである。

もし面接のときに「どうもCOOの〇〇です」などおっしゃられていたのなら、それはもう最後。僕はこの内定式にはいなかっただろう。

緊張で何も喋れなかったはずだ。

スピーチの冒頭で東大出身であることも判明した。
東京大学出身の文字がスクリーンに出た瞬間、会場の雰囲気も気のせいか締まったように感じた。

最終面接では、その方に「地方で採用人数を増やすためにはどうすればいいか?」と緩い感じで質問された。

僕は「BtoBの会社は一般の目に触れる機会が少ないから、学生に対してインプレッションを増やせば良いと思います。」とやや上からな発言をしちゃっていたことを思い出し、冷や汗をかいた。



時として、自分の身分を明かさない方が良いときがある。

僕が最終面接を通過したのは、緊張せずに自分が感じたこと、思ったことを発言できたからであり、且つナチュラルに話せる環境があったからである。

もし、COOだと分かっていたら、同じような会話ができていたとは考えにくい。

「東大出身」や「COO」、こんな無敵の看板は事と次第によっては相手を殺しかねない。でも彼らは出し入れするタイミングを知っている。故に東大出身であり、COOである。



学生と話す機会もあった。
テーブルごとに学生が集まり、それぞれのバックグランドを話し合う。

僕の隣にいた女子大生は阪神ファンで、ホークスファンの僕と野球の話で盛り上がった。その後、どこの大学に通っているのか?という話になった。

京大生だった。
現役の京大生と話すのは、人生初めての経験。

しかも宇宙法とかいう、地球の重力とは比にならないくらい重たそうな分野を専攻をしている女子大生。

東大とか京大とか、そういった名前を聞いただけで会話になるのか、次元が違うのではと構えてしまう。しかもガチの天才しか所属していなさそうな専攻。

でも、その人はすごく話しやすかった。僕と同じで旅行好きで、最近はパレスチナに行ったらしい。旅行先でパレスチナを選ぶところもまた京大生らしい。

懇親会では会社の事業に関連するクイズが出た。選択肢のあるクイズだったが、その子はほとんど分かっていなかった。京大生でも分からないことはたくさんあるらしい。

京大という看板を見た後に「旅行でパレスチナ行きました」という珍味そうなメニューにはすごく惹かれるし、「クイズできません」という庶民派なメニューには親近感を感じる。

京大という看板が作り出す深みのありそうな料理。


逆に看板のない僕が、バックパックでヨーロッパに行ったって話をしたら、それはそれで興味を持ってくれた。

無名のレストランだからこそ惹かれるメニューもあるらしい。





学歴は高い方が良い。
それは、ある領域においてはそうだと思う。

でも、誰も知らないような大学の子が韓国語を流暢に喋っていたら「え、すご!かっこいい」と感じたし、誰もが知っている大学の子がグルディスで意味わからんこと言ってたら「何こいつ、頭だけかよ」とも思った。


だから、看板という領域においての学歴は、使い方を知らないといけない。


賢い人は看板をどこにおいてどう見せるのかを知っているし、自分で看板を作り出したりもしている。

例えば「年上」とか。
今この瞬間に生まれた赤ちゃん以外は、誰もが誰かに対しては持っている「年上」という肩書き。

悪賢い人も含めて、できる人は一見しょぼそうなものさえも看板にしちゃう。


僕も一時期は年上の女性に対して目がハートになる時期があった。
今となっては、年上という文字にただ反応していただけだったと思っている。

でも、年上の人がちゃんと年上感を出してきた上で、納得させたりギャップを感じさせたりする行為をしたら、状況によってはハマるかもしれない。

年下でもそう。
首に「年下」の看板を下げた子が、幼い仕草を見せたら愛らしく感じるだろうし、一方で面倒見が良かったりするとギャップにやられるかもしれない。


なぜ恋愛の話になったのかは分からないが、看板は看板であり、その人の中身ではない。どんなに頭の悪い店長でも、店内に看板を設置するやつはいない。


それでも看板は本質ではないと分かっていながら、僕含めて誰もが看板を欲しがるし、他人の看板は気になる。バイアスに近いことだと思う。


でもこうした看板による偏見が、人との付き合い方を簡単にしてくれたり、面白くしたくれたり、哀愁を持たせてくれたりする。



あくまで看板なしの僕個人の意見。

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