おばさん
数年前から、祖母が私の実家に住むようになった。
祖母は66歳の頃に夫を亡くし、それ以来は母の姉(私の叔母)と二人で暮らしてきたが、その生活も平穏ではなかったからだ。
母方の家族は氷上のようにいつも冷たく、幾度か衝突を起こして互いの心はばりばりと割れた。割れた心たちはあたたかい愛で溶けることもなく、またぶつかり合うまで冷たいままだった。
全部、叔母のせいなのだ。
叔母は中学生時代からいわゆる「スケ番」で、近所では有名だったらしい。長いスカートをずるずると引きずって、煙草をふかしながら深夜まで遊び回り、帰ってきては祖母のことを怒鳴り散らした。
一方で母は、「スケ番の妹」というレッテルを貼られながらも学校では慎ましやかに過ごし、料理の苦手な祖母に代わって晩ごはんを作っていたという。
母は26歳で結婚し、パートタイムではあるが職に就いた。
叔母は、結婚相手が見つからず、職にも就かず、祖父や祖母の年金を貪り生きていた。
ときどき祖父が私の実家に来てくれて遊んでくれた記憶こそあるが、叔母や祖母は私たちに見向きもしていなかったと思う。
祖父とは、はくちょう公園や、うどん屋や、入院をしていた病院のベッド、様々な思い出があった。
でも祖母や叔母を思い出すときは決まって、祖父の葬式で喪服を着て立っているところだけだった。
あ、叔母のはもうひとつだけ。
叔母が生まれたばかりの私を抱きかかえて笑顔を向けている写真を見たことがある。母曰く「アイツが人生で一番笑った日」だそうだ。しかし私が大泣きすると「このクソガキが」と吐き捨てたらしい。
家族だと思いたくないね、あんなやつ。
これが母の口癖だった。
祖父が亡くなって10年ほど、祖母と叔母はふたりで暮らしていた。相変わらず叔母はニートだった。
ある日、珍しく祖母から電話があった。
受話器をとった母の顔は驚きに青ざめ、手は震えていた。
「部屋のふすまの間に、包丁が挟まってたって」
叔母の仕業だという。
祖母は小さな声で、これまでのことを話した。
二人暮らしを始めたころからの「料理が不味いから罰として冷蔵庫を使うな」だの「物音をたてるな」だの、意味もわからない命令。
真夏だというのに、冷蔵庫を使わずにクーラーボックスだけで生活していたこと。
一度祖母のお金がなくなって警察沙汰になったときも、叔母が隠し持っていたこと。
母はいつになく険しい顔で、ため息をついた。
さすがに、事が大きくなる前になにか策は打たねばならなかった。
ある日、小学校から帰ると、母と父と祖母と、髪がボサボサの太った叔母がテーブルに座っていた。
叔母は目を合わせてくれなかった。
「小梢は二階に行ってなさい」
言われるがままに二階に行っても、「ろくでなし」「ババア」「生きる価値がない」と母と叔母の口論が聞こえた。父が一生懸命なだめていた。
二階の押し入れを漁ると、叔母と赤ん坊のときの私の写真をすぐに見つけた。
今までは、この写真を捨てないで、ちゃんとクリアファイルに挟んであったのだ。すぐに取り出せるところに。
ろくでなし...
この写真が捨てられるのは、時間の問題かもしれないと思った。
数時間たって静かになると、「言いたいことがあるから降りてきなさい」と母に呼ばれた。
明らかに不機嫌な叔母はちょっと怖かったけど、怖いからいやと言うのも怖かったので、しっかり見送ることにした。
「今度からはばあちゃんが、うちに住むことになったからね」と母は言う。
つまり、叔母はひとりで暮らさなくちゃいけない。仕事を見つけて、自分でお金を稼いで、自分でご飯を作らなきゃいけない。
おばさんが元気かどうかは、誰が確認するんだろう?
天国にいるじいちゃんしか、見てあげないかもしれない。
全て叔母が悪い。
みんな叔母のことが憎い。
それはわかっているけど。
私はさっきの写真を叔母に渡した。
「“あなた”の写真、見つけたからあげるよ」
その写真を見てから、私のことを睨みつけた。クソガキ、と口が動いた気がした
これからおばさんは、独りになる。
ある意味虐待のようなことをしていたのだから、自業自得だザマアミロ、当然の報いだということかもしれない。
正直私も、おばさんの健康や安全だとかはどうでもいい。
それでも、私は笑顔のあなたに少しだけ抱かれた身として、優しい心のしるしをあなたに託そうと思った。
あなたのことが憎い私や母だったら、いつか捨てちゃうかもしれないから。
どうか、あなたのために、それを捨てないでいてほしい。
このクソガキでも、他の誰でもなく、あなたのためだ。
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