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ギリシャ哲学

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ソクラテス「死を恐れるということは、諸君、知恵がないのにあると思っていることに他ならないのだ。死を知っているものは誰もいないのに、そしてそれはまた、人間にとって、最も善いものであるかもしれないのに、彼らはそれを恐れているのだ。」

ソクラテス「死を恐れるということは、諸君、知恵がないのにあると思っていることに他ならないのだ。死を知っているものは誰もいないのに、そしてそれはまた、人間にとって、最も善いものであるかもしれないのに、彼らはそれを恐れているのだ。」

ソクラテス「死を恐れるということは、諸君、知恵がないのにあると思っていることに他ならないのだ。死を知っているものは誰もいないのに、そしてそれはまた、人間にとって、最も善いものであるかもしれないのに、彼らはそれを恐れているのだ。」
(「ソクラテスの弁明(プラトン)」より)

無知の知(不知の自覚)は、哲学に興味のない人であっても一度は耳にしたことがあるでしょうし、それほど難しいものではありません。

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ソクラテス「この男は、知らないのに知っていると思っているが、わたしは知らないから、知らないと思っている。つまり、このちょっとしたことで、わたしの方が知恵があることになるらしい。」

ソクラテス「この男は、知らないのに知っていると思っているが、わたしは知らないから、知らないと思っている。つまり、このちょっとしたことで、わたしの方が知恵があることになるらしい。」

ソクラテス「この男は、知らないのに知っていると思っているが、わたしは知らないから、知らないと思っている。つまり、このちょっとしたことで、わたしの方が知恵があることになるらしい。」
(「ソクラテスの弁明(プラトン)」より)

俗に言う「無知の知」です。
無知の知という言い方は誤解を招くので「不知の自覚」と言うべきである、という意見もありますが、私は別にどっちでもいいだろうと思います。

無知の知とは

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パルメニデス(前5世紀)⑥ 一の肯定・多の否定

あるものは、

① 生成されず
② 生滅もせず
③ 運動変化もしない

ということになると、演繹的に一つの結論が導き出される。
それは、

あるものは「一」である

ということである。

生成変化しないのであるから、時の経過という概念とは切り離された存在であり、永遠にある。
そして、運動しないのであるから、常にそこに留まっている。
そうなると、あるものが複数存在するということは論理的に有り得ず、た

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パルメニデス(前5世紀)⑤ 消滅の否定・運動の否定

あるものは消滅するのか?

あるものが生成するということは、一つのルートが考えられる。

あるものからの消滅:ある→あらぬ

これは「あらぬ→ある」の生成が有り得ないのと同様である。
つまり「あらぬ」ことが理性をもって想定しえない以上、あるものがあらぬものになることはない。

そうなると、あるものが運動変化することも否定される。
運動変化は、次の二つのパターンが考えられる。

① あるものから、別

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パルメニデス(前5世紀)④ 生成の否定

あるものは生成するのか?

あるものが生成するということは、二つのルートが考えられる。

① あらぬものからの生成:あらぬ→ある
② あるものからの生成:ある→ある

まず①について検証する。
前回申し上げた通り、あらぬものとは、私たちの観念をもって思い懐くことすら叶わぬ、絶対的な無である。私たちが思い懐くことの出来る無とは、有の対極としての概念であって、概念として存在するものであるから、厳密には

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パルメニデス(前5世紀)③ あらぬ、とは何か

あるものはある、あらぬものはあらぬ。

まず「ある」「あらぬ」とはどういうことか。
先に「あらぬ」から検証した方が分かり易い。
以下は私個人の足りない頭による理解である。パルメニデスの真意を本当に正しく理解しているのかどうかは保証できない。

あらぬとは「無」である。
究極の無、絶対的な無である。
ここで何故「究極」「絶対的」と表現したかと言うと、通常私たちが思い浮かべる無とは、「有」の対義語であ

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パルメニデス(前5世紀)② あるものはある、あらぬものはあらぬ

あるものはある。
あらぬものはあらぬ。

ヘラクレイトスは、万物が破壊的に生成消滅すると言った。つまり、

生成:あらぬ→ある
消滅:ある→あらぬ

あるいは、

変化:ある→ある

というようなことが、この世界では刻々と起こっている、と言う。
実際のところ、これは滑稽無形な論ではなく、まさしく私たちが日常感じている感覚である。草木が種子から芽を出して大きく成長したり、川の水が流れたり、火が灯った

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パルメニデス(前5世紀)① 万物流転説の否定

ヘラクレイトスの万物流転説は、非常に分かり易い。
何故ならば、私たちはそれを感覚的に、経験的に理解し得るからである。人は同じ川に二度入ることはできない。いや全くその通りだ。川の水の流れは絶えることはない。ついさっき見ていた川と、今見ている川は全く別物である。その視界に入っている水は全て入れ替わっているのだから。

このような、感覚や経験を通じて得る世界観をバッサリと否定したのが、パルメニデスである

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パルメニデス以前の哲学者たち⑥ ヘラクレイトス(前6~5世紀)

ここまで何人かの哲学者たちを見てきたが、ミレトス学派の三人は動的な世界観であり、ピュタゴラスは静的かつ調和の取れた世界観であった。
そして今回のヘラクレイトスは、ミレトス学派の動的な世界観を更に加速させて、かつ破壊的にした世界観を有している。

ヘラクレイトスの世界観を端的に表す言葉は「万物流転」である。これは彼自身の言葉ではないようであるが、彼の遺した言葉の段片を重ね合わせていけば、最終的にこの

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パルメニデス以前の哲学者たち⑤ クセノパネス(前6~5世紀)

クセノパネスは、今まで紹介したミレトス学派、ピュタゴラスと比べると若干(?)知名度は落ちる。哲学史の本によっては、全く紹介されていないこともある。
しかし彼をもってエレア派の祖とする説も一応あるにはあるので、簡単に語っておく。ミレトス学派やピュタゴラス同じく、イオニア地方の生まれである。

哲学の始まりは端的に「ミュートス(神話)からロゴス(原理)へ」と呼ばれる。これまで紹介した通り、タレスから始

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パルメニデス以前の哲学者たち④ ピュタゴラス(前6世紀)

ピュタゴラスはミレトスに近いサモス島にて生まれた。よって前回まで紹介したミレトス学派の自然学には通じていたものと推測される。
やがてピュタゴラスは地元の圧政から逃るために、南イタリアのクロトンに移住し、そこでピュタゴラス教団を設立する。

ピュタゴラス教団は極めて閉鎖的な団体であり、具体的にどのような教団であったのかは謎が多い。またピュタゴラス自身の著作がないので、これから記す内容は果たしてピュタ

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パルメニデス以前の哲学者たち③ アナクシメネス(前6世紀)

ミレトス学派の最後を締めくくるのは、アナクシメネスである。
タレスは、万物のアルケーは水である、と言った。しかし火の熱であったり、乾燥した空気であったり、水では説明の付かない現象がこの世界には有り得る。
そこでアナクシマンドロスは、ト・アペイロン(無限定なもの)がアルケーであるとした。これでタレスの説の欠点は解決し得るのだが、しかしト・アペイロンとは如何なるものであるか。これは私たちの感覚や経験を

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パルメニデス以前の哲学者たち③ アナクシマンドロス(前7~6世紀)

タレスの後に続く哲学者は、アナクシマンドロスとアナクシメネスである。タレスを含めたこの三人は、いずれもミレトスの人であるため、合わせてミレトス学派と称される。

アナクシマンドロスは、タレスの弟子である。生前は多くの著作を遺したと言われているが、現在はほぼ消失されており、段片的な記録が残るのみである。その僅かな記録によれば、彼は万物のアルケーは「ト・アペイロン(無限定なもの)」だと主張した。
師匠

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パルメニデス以前の哲学者たち② タレス(前7~6世紀)

タレスは、イオニア地方のミレトスという都市で生まれ育った。
哲学は、アテナイではなく、この地において始まった。ここで紹介するパルメニデス以前の哲学者たちは、全てイオニア地方の人たちである。
イオニア地方とは、今で言うトルコの一部であり、エーゲ海に面した交通の要所で、当時最先端の文化水準であったバビロニアやエジプト等との交易が盛んであった。

そのような様々な民族が交流する港町において、各民族の内輪

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