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「愛がなんだ!ってんだコノヤロウ!!!」最終話【長編小説】

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↓ 前回までのおはなし。


舞城ユキヨ

 俺は必死に駆け出した。
 ちょっと親が倒れまして! 急がにゃならんのです! なんて嘘をついて、鞄とジャケットを体にくっつけて、艶やかな革靴の靴底の擦り減りなんて気にもしないで、必死に走った。ふざけんな! って思いながら、額に玉粒の汗をかいて、思いっきりに走った! 
どうやったら早く東京駅に着く? わかんなかった。LINEに「仕事辞めて、実家に帰るから。止めたかったら東京駅に来て」と送られてきて、焦って人事部の知り合いに確認したら、半月前に本人から希望があって今日付で退社ってことになったとの話を聞いた。
 ずっと黙ってたんだ! 俺は慌てて、溜まってる全ての仕事をすっぽかして、嘘臭い言い訳して会社を飛び出した。どうせ高田さんが処理する。あすかさんに土下座して埋め合わせてもらおう。
 俺の代わりは誰だっている。でも、未駒たまきを止められるのは俺しかいない。絶対に俺しかいない。そう信じるんだ。信じて信じきって疑っちゃダメなんだ。
「ちょっとそこで待ってろ! 今すぐ行くから! 絶対にすぐ行く!」って返信して、兎に角走った。ネクタイを緩めて、髪を振り乱して、通りを歩くスーツ姿の人々を掻き分けて、真昼間の大手町を抜けて、丸の内のビルとビルの間を走り抜けて。
 馬鹿で結構。阿呆で結構。今、この瞬間に足を踏み出さないと絶対に一生後悔する! 恥も外聞も後で幾らでも聞いてやる! 俺は行くんだ! 絶対に彼女の元に。
 ビル風が右手に引っ掛けたジャケットをはためかせる。鞄は上下左右に揺れて胸や腹に打ち付ける。
 構わない。そんなもの。未駒たまきの、気まぐれな彼女のわがままに、必死で喰らい付いてやる。
 愛することの意味なんてわからないけれど、でも絶対に今走らないと後悔する。
 それで。それで。絶対に言ってやる! このバカヤロウ! 何してんだコノヤロウ! って! ホントに滅茶苦茶しやがって! いい加減にしろって!
 丸の内広場が見えてきた。東京駅舎の全景が見えてくると、バスターミナル横の広場の街灯横に、キャリーバッグを片脇に置いて時計を確認している彼女が見えてくる。
 今は何時だろう? 彼女は何時に出発するんだ? わからない。聞くことも忘れてた。そんなこと関係ないんだ。彼女の前に行くんだ。脚がもつれて、気管が軽くヒューヒュー音を立てる。雲間から溢れる太陽の光は、俺の背中を急かす様に照りつける。
 グズグズになった足取りで彼女に一歩一歩近づくと、彼女はその場を一歩も動かずに黙って俺の姿を見ていた。俺が目の前に辿り着くのを待っている。
 上等じゃねえか。絶対に行ってやる。目の前に行って言ってやる。言ってやる。
「絶対に……はぁはぁ……ぜってー……いってやる……。いってやる……」
 汗で白いシャツがべっとりと体に張り付く。顔中から汗が吹き出して御影石を汚していく。肩で息しながら膝に手をついて、片手で何も言うなって制止するように促して、その場をしばらく動けなかった。
「ちょっと……今……なんか言うから……」
 俺は呼吸を落ち着かせようと必死に息を吐き吸いを繰り返したけれど、効果なんて一切なくて、ただただそこに居ることしかできなかった。
 そんな俺を横目に、街灯横に佇んで腕時計を眺めた彼女は、呆れた様に溜息を吐いて、
「おっそい。ってか、走ってきたんだ。恥ずかしいからやめてよ」って、情け容赦なく言った。
 その言葉に笑った。ハハハって具合に。かろうじて空気を吸い込んで詰まるように、
「ふふ……。ふぅ。はぁ。言うと……思ってた。バカだって思ってるよね」って、言って、頑張って顔を上げた。
 大汗かきながら、目に汗が入って視界が滲むけれど、そこに未駒たまきは、ちゃんと立っていた。
 それを確認すると笑いが込み上げた。馬鹿らしくて。俺も彼女も。何やってんだって。
 思いっきり息を吸い込んで、
「このバカヤロウ! いきなり連絡よこして仕事辞めるだ、故郷に帰りますだ、昭和初期じゃねぇんだから……はぁ……そんなこと許されるわけねぇだろが」言葉と息に詰まりながら、たまきが自分に言ってみせたように、たまきの事を心から馬鹿にしてやる。阿呆だって言ってやるって。ゆっくり一つ一つ吐き出した。
 たまきは少しの間、黙って膝に手をつき丸まった俺を見下ろすと、「これ。聞いた。ドユコトなの?」と、スマホの画面を見せた。
 そこにはイチカのアカウントに並べられた写真と文章が羅列してあって、アイツはまだ消さずに残してたんだって暗澹たる気持ちになった。
「誰に? 聞いた?」
「あすかさんが教えてくれた。これって浮気?」
「じゃねーよ。飲み仲間。と、友達。と、あすかさんも写ってるじゃん。ってか、あすかさんはたまちゃんに何見せてんだよ」
 頭から血が引いていて、少し朦朧として、ちゃんとした言葉が出ないことに気づいてたけど、俺なりに伝えたつもりだった。
「あすかさんがさ。たまきちゃんこんなのがあるんだけど、どう思う? って揺さぶってきたの。別にアタシは友達であり仕事仲間ってだけなんだけど、ユキヨくんの違う一面も知りたいだろうからってね。そんなコト言って私に色々話して聞かせた訳。ワケわかんないけど聴いてる分には面白いから。でも、ちょっとイラついて、で、だいぶ前からずっと張って覗いてたの。イチカって子がアップするひとつひとつを」
 たまきは呆れ顔して、スマホ画面をスライドしては溜息をこぼした。
 あすかさんは一体何考えてんだ。あすかさんの事だから何か意味があるのかもしれないけど、そんなん今の俺には何にも関係なかった。
「聞きたいなら一個一個説明する。その代わりに何でこんなことになってんだか教えろよ」
 俺は戸惑いと怒りで濁った表情をして彼女を睨むと、彼女は軽蔑と憐れみの目をしてこっちを見て、
「で、どうしようかなって迷って呼んだんだ。今日。もう、帰りたいなって。全部清算してラクになりたいってね」
「あーっ。もうわかんね。俺にどうしてほしい? 頭パンクしてて回ってないから、ストレートに言ってほしい。言ってくれ」
 枝っ切れの様によろよろと体を起こして、ようやく立ち上がると、一度空を見上げてから、彼女の目を見て言った。
 もう何を言われてもどうでもよかった。
「知ってるかもしれないけど、私って他に男がいるの。三人ね。別に悪いやつじゃないから、そっちと遠くにでも行こうかとも思ったんだけど、やっぱめんどくさくなっちゃって。だから、あなたに連絡したの」しれっと言う彼女に、
「理屈がよくわかんない。他に男がいたってのも知ってる。たまちゃんが色々と面倒そうにしてたのも知ってた。他の女性と飲みに行ってるの黙ってて悪かった。やになる気持ちも何となくわかる。たまちゃんはしつこいって顔して話してくれないけど、たまちゃんの気持ちを俺に教えてくれ。何が良い悪いとかじゃねえ。何でもいいから吐き出してくれ。君のことが知りたい。罵詈雑言の一つや二つ受け止めてやる。言ってくれ。行かないで。今、言ってくれ。此処で言ってくれよ。未駒たまきのばかやろう」
 俺は右も左もわからなくなった子犬の様に目を潤ませて狼狽しながら、彼女に向かって訴えかけた。俺なりの行かないでくれ! って気持ち。もっと未駒たまきを知りたいって気持ちを。理屈が捻じ曲がってるのは百も承知だ。でも。でも。行かないで欲しかった。辛いから。行ってほしくないから。俺と居て欲しいから。
「じゃあ言っけどさ。私は四股かけてました。あなたは四番目です。あなたは知らない女と色々あったみたいです。でも、私は知ったこっちゃないです。私なんて、まいちゃんがやってたことに比べたら想像の何百倍も駄目なことしてっからね。だから、私、わからなくなったの。何でキミと居るとムカつくの? 何でこんなどうでもいい文章の羅列を見ると寂しく感じるの? 私の知らない姿を写真で見せられると複雑な思いに駆られるの? 私にとってキミは何で? キミにとって私は何なの? もう、訳わからないんだ。だから、まいちゃんが一番傷付くような事をしようと思って。まさか、馬鹿みたいに走ってくるなんて思ってなかった。地下鉄使いな。ここ東京なんだから」
 彼女は早口言葉で捲し立てて、未駒たまきの内側を暴露して、悲しげな表情をして、俺を眺めていた。アンタに何ができんの? そんな風に思われてる感じがした。
 もうわからん。どうにでもなれ。なんでもいい。
「あーっ。もう、行くな! 行くな! 行くな! ってかどこ行くんだよ? 故郷? 地元どこだっけ? あー。違う。行っちゃダメなんだよ。俺は別に四番だろうが五番だろうが関係なくて。たまちゃんの過去とか、今なにしてるとか、気になるけど顔真っ赤にして堪えてやるから。だから。絶対に行かないで!」
 歯を食い縛りながら、拳の血管が浮き出るくらいに力を込めて、頭から湯気出てたと思う。そんくらいしなきゃ。この子は繋ぎ止められないんだ! くそう! くそう! たまき! 行くなよ!
「えっとね。行くのは札幌」
「ちょっと! 前は地元は沖縄って言ってたじゃん! あれ嘘⁉︎」
「うん。ホントはカナダで産まれて、ドイツに引っ越して、中学の時に中国に行ってから、沖縄か札幌か? って悩んで、札幌に引っ越したから。だから、日本の故郷は札幌」
「は? そんなくだらない嘘つくな! こっちは真剣なんだぞ!」俺は涙ぐみながらたまきに言った。
「んー。じゃあ、沖縄に行こうかな。今の時期暖かそうで過ごしやすいだろうし」
「マジ……。何なんだよ。何が言いたい? もぅ! 怒らせたい? 俺を? 何で? 何がしたい? 心を開けよ!」
 彼女も次第に感情が表情に反映されはじめて、苦虫噛み潰すような顔しながら、眉間に皺寄せて、首を右に左に何度も何度も振って、苦悶の表情を露わにして、チッて大きく舌打ちすると、
「んーっ。だぁー! モウ! なんで? 何でわかんないの? 止めてほしいの! 別にどこだっていいじゃん! 故郷どこ? じゃねぇだろうが! まいちゃんはそゆとこホント馬鹿! くそくそくそ! わからずやのユキヨ! 別にいいの! どこだっていいの! 私はどっかに行きたいの! 辛いの! つらくてしょうがないの! だから、此処から消えて無くなりたいの! 無くなれないからどっか遠くに行くの! でも、止めて欲しいの! 何でか……。わかんないけど。まいちゃんに迷惑かけてでも、此処に来てほしかった。アンタに止めて欲しかった」
 彼女の言葉を遮って、
「ハ? 止めるよ! 当たり前だろ! たまちゃんの為なら何したって止めてやるよ! どんなにくだらないこと言われたって大真面目に受け止めて堰き止めてやる! だから、たまきのバカヤロウ! って。そう言いに来たんだから!」
「じゃあ何で聞くの? 別にいいじゃん? 私はまいちゃん来たら、此処に残るもん」
「でも、来なかったら新幹線乗ってどっか行こうと思ってたじゃん! 仕事まで辞めてさぁ! なにしてんの? 頭おかしいって!」
「いいじゃん! どうせ辞めようって思ってたんだから、いつ辞めたって私の勝手じゃん。なら、結婚する? 今すぐ籍入れる? それなら無職じゃキツい? ねぇ? どんな感じ? どんな気持ち?」
 たまきは尖った口調と剣幕で捲し立てた。
「バカみたいなこと言うなよ! 自分を大事にしろって言いに来たんだ! 俺は! 自分を大事にしろ! そんで、ここにいろって! その二つ! 二つ言いにきたんだ! 結婚? いいよ! してやるよ! でも、こんなやり方で結婚なんかできる訳ねぇだろ! 違うだろ! 俺はやだ! こんなのヤダ! そんなことじゃねえんだよ!」たまきと同じくらい混濁した口調で返した。
「アンタが本当に救いないくらいのバカヤロウだって知ってる! だから! 私は絶対来るって思って待ってた! 後のことは知らない。まいちゃんが来て、そっから考えようって。一緒に会社辞めて、どっか遠くに行く? どう? それよくない?」
「よくねえよ! お互いに仕事っていう大切な人生の側面もあるだろ! それを捨てんな! 簡単に辞めんな! たまき! 未駒たまきのダメなとこだ! ポイってやってくしゃくしゃってすれば何でも済むって思ってる! それよくない! 俺はポイってしたのを拾って何度でもたまきの元に戻すから。だから、そんな考え方すんな!」
「なら、どうしたらいいの? 他に男、三人居るし、東京もやんなっちゃったし。こんな真っ昼間に、人だらけの駅前で大声張って喧嘩して、周りから笑われて、失うもんだらけじゃん! そんならいっそリセットしたいよ! サラにしてやり直せばいいって思うじゃん」
「んなことない! 三人? しらねぇよ! 上等だよ! 俺よりもたまちゃんの事を思ってるなら今すぐ駆けつけて来いよ! テレパスでも虫の知らせでも察知して駆け出せよ! それが出来ないから、今、俺がたまちゃんの前で喚いてんだ! かかって来いよ! 知らねえよ! 今はたまちゃんを止めるのに必死なんだ! そんなんどうでもいいわ!」
「じゃあ言わせてもらうけど、アンタだって女友達とも宜しくやってたみたいじゃん? そうゆう浮ついたとこもあんだね! 純朴バカだと思ってたけど、舐め過ぎてわ。阿呆! 私以外のヤツとしやがって! エロ犬!」
「違うだろ! 色々見て知ってんならわかんだろ! どうせ、あすかさんも事細かに話してんだろ! 何で、俺の周りにはそんな身勝手しか居ないのかわからんけど……、でも、違うの知っててカマかけんな! やってない! してません! その事なら何百回も何千回も話すから答えるから、だから、ホントに行くなよ! 会社辞めんな! 俺のそばから離れんな! たまちゃんが自分でそっから動くまで何回でも言ってやるよ! 離れんな! 行くな! 此処で一緒に居てくれ!」
「マジ自分勝手だと思う。私がいつ何百も何千も説明してくれって言った? じゃあ、今ここで他の男といままでどんな事してきたか描写してやろうか? それを望んでると思う? 勘違いヤロウじゃん。馬鹿。知らねえよ! お前と他の女の間に何があったなんて知らねえよ! ンーッ! 何なの? この時間? ねぇ? アンタは何でそこに立ちっぱなの? ねえ!」
 ユキヨはたまきと向き合ったまま大声で喧嘩して一歩も動こうとしなかった。意地でも、たまきの方へ踏み出そうとしなかった。腕組みしたり、首を抱えたり頭抱えたり、髪を掻きむしってみたり。でも、絶対に動こうとしなかった。
「フザケんな! だあーっ! もう考えたかないわ! 誰と何を? 知らんわ! そんなん全然大事じゃないから。」
 スッーっと息を吸って、未駒たまきの瞳を見つめると、
「たまちゃんは来て欲しいんじゃないだろ! こっちに来たいんだろ! 何時間だって立ち続けてやるからな! 俺に向かって飛び込んでこいよ! 小動物だって見くびってんなら飛び込んで確かめてみろよ! 今の俺はたまちゃんが向かってくるまで、ずっとこのままでいてやるよ! 他の事はシラネ! 仕事放っぽってこんなトコ来てさ、大喧嘩してさ。明日になりゃ俺もクビかもしれないよ。でも、来ちゃったんだよ! なら、居るだろ! そのキャリーバック投げ捨てて、俺に向かって一歩一歩向かってくるのを見届けるまで、絶対に動かないからな!」
 俺は未駒たまきを睨んだ。絶対に瞳から視線を逸らすもんか! って。伝われ! 伝われ! 俺のとこに来い! もうぐちゃぐちゃだ。ポリシーもモラルもへったくれもなくなった。もういい。来い! って。来てくれよ! って。涙ぐんで心を絞りに絞ってボタボタと汗のように落ちた言葉を彼女に浴びせかける。
 くそったれたガキみたいでいい。周り? スマホで撮られてる? 知るか? 俺は目の前の彼女を止める為に全身全霊なんだ。知るか。何もかも知るか。わけなんかないんだ! 理由? 理屈? 性格? タイプ? 好み? 相性? は? 意味なんかねえよ。決めたんだ! 決めたから。だから、彼女の目の前で立ってんだ。どかない。こっから逃げない。絶対に。曲げてたまるか! エゴだ! こんなん自分のエゴだ! エゴで上等だ。押し付けてやる。彼女に俺を押し付けてやる! 押し付けてそれでも払いのけてそれでも押し付けて何度も繰り返して彼女がこっち駆けてくるのを待ってやる。待ってやるんだ!
「まいちゃんはホント馬鹿だよ! 私の何がいいの? くちゃくちゃなんだよ? 見てくれだけの私に何があるっていうの? 教えてよ! 教えてよ! 教えてくれそうなの、まいちゃんくらいしかいないんだ。だから、責任とれ! 私に教えろよ。私の何がそんなにいいの? 私と居ることに何の価値があんだよ? おしえてよ! 飛び込む? それ答えたら飛び込んでやるよ! そんなん答えられる人なんか居るワケないんだよ! だから……だから……」
 未駒たまきはハァハァ息を切らし言葉を失って、顔に手を押し当てて溢れ出る涙を受け止めていた。
 くちゃくちゃな言葉の端々に滲む哀しみが漏れ出るみたいに。何かを期待していても、何にもうまれない世界に生きてしまったせいで孤独で泣きじゃくって縮こまる子供のように。涙で彼女がバラバラに崩れてしまいそうなくらいに泣いていた。
 俺はその姿を見て、渡そうと思った。彼女と俺が向かい合ってる理由を。掛け合った運命の悪戯を。振り乱して走ったせいで中身がグチャグチャになった鞄に手を入れて。
「これ。これをまず返さなきゃって。思ってた。未駒たまきちゃんが、俺のことを見てくれたら返そうと思ってたんだ。何回も何回も読んだから。たまちゃんを思い浮かべながら。何回も。今なら返せる。だから、受け取ってほしい。」
 そう言って、愛がなんだ、の文庫本を差し出した。くたびれて少しだけ角が丸まった綺麗な表紙を向けて。
 たまきは涙で滲んだ瞳で本を見ると、
「私は借りるねってあの時言ったんだよ。貸してたワケじゃないんだよ」と、言った。
「俺はたまちゃんの本だと思ってた。いつか。いつか、二人の本になるはずだって。そう思いたかったから。もう一度、たまきさんの手の中で、この本のページが捲られる時を待ってたから。俺の本じゃなくて、俺とたまきさんの本になる時を待ってたから」
 そう言って突き出した。此処まで取りに来てって。たまちゃんがこっちに来るのを待つように。
 くちゃくちゃの顔で鼻を啜りながら本と俺を見ると、
「これが一緒にいる意味?」
「うん。これがなかったらこうやってお互いぐちゃぐちゃになってなかったでしょ。俺はこうやって言い合いしてる今が幸せなんだ」
たまちゃんはグズるみたいに戸惑って、
「私に渡しに来てくれないの?」って言ったけれど、
「取りに来てほしい。たまちゃんが手を伸ばして受け取ってほしいんだ。本屋でたまちゃんが俺にしてくれたみたいに、俺もたまちゃんの掌の中に本をおさめてあげたいから」って俺は譲らなかった。
 その言葉を聞くと、キャリーバックをゆっくり引きながら、一歩一歩こちらへ、ゆっくりゆっくり歩いた。
あと一歩ってとこまで来て寂しい顔をして、
「ホントに私と居る理由ってこれだけなの?」って聞いた。
俺は「うん。この本が二人を繋いでるって思ってる。でも、この本はキッカケで、この本のおかげで色んな時間を過ごせたから。だから、この本のおかげでたまちゃんと一緒に居たいと思ってる。思ってるから。たまちゃんに手渡したいんだ。そうすれば一緒にいられそうな気がするから」
「ホントまいちゃんらしい。恥ずかしい言葉だね」って、くしゃくしゃな顔で笑ってみせると、ん。って左の掌を広げて、一歩前に踏み出した。
 俺はゆっくりと彼女の指と指の間に「愛がなんだ」の本を差し入れて、彼女はゆっくりとその本を握りこんだ。
「まいちゃん、渡すのヘタだね」って本を眺めながら笑った。
 あの時とおんなじみたいに、あどけない笑顔でペラペラと頁を捲ってみせて。こっちに視線を移すと、
「ホントのホントによくわかんないよ。まいちゃんってわけわかんないだよ。なんでこんなヤロウ好きになっちゃったんだっておもうよ」って。
「それはお互い様だよ。俺だって何度も何度も、何でこんな子を好きになっちゃったんだろうって思ったんだもん。でも、どれだけ一人でコノヤロウ! って罵っても、好きだって気持ちが消えないんだもん。だから、一緒に居たい」
 俺がそう言うと、瞳と瞳を見つめ合った。俺は鞄とジャケットをその場に放って、両手を広げた。
 彼女はふふって笑うと、キャリーバックから手を離して、俺の胸目掛けて飛び込んだ。
 互いの両手が縺れて抱きしめ合うと、恥ずかしさを紛らす為に二人ふふって笑いあって、まいちゃん汗でべっちょりだよ。って。服汚してごめんね。って。そんなん全然いいよ。私の為に必死になってくれてありがとう。って。たまちゃんこそ飛び込んできてくれてありがとう。って。
 二人の事しか考えてなかった。東京は時間が止まったみたいに静かに感じられた。
 目と目を合わせて確かめ合うとゆっくり唇を近づけてキスをした。力いっぱいに抱きしめ合って、人目もはばからずに。二人を確認し合うみたいに口付けを何回も交わした。
 背中が太陽の光を浴びて少し暖かい。雲の隙間から光の筋が差し込んで二人を照らしていた。角度を変えれば映画のワンシーンみたいに素敵でロマンティックな光景だったんじゃないかと思う。恥ずかしいから考えない事にした。
 彼女との時間に全て捧げて何も考えずに今を過ごしたかったから——。





――エピローグはこちらから!


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