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フリードリヒ・ニーチェ「ツァラトゥストラ」

読み終わってからの第一声「なんだこれは?」でした。
ちょっと、怒りました。怒ったというより、疑心になりました。本当、なんだこれは、でした。

こんにちは。
「ツァラトゥストラ」あるいは「ツァラトゥストラはかく語り」というタイトルで出版されているでしょう。聞いたことある人はあるかもしれません。

あの。この本、だれか、教えていただけませんかと申し上げたいです。
こんなに、まるで手応えが解らない本、初めてって思いました。個人的に変な本だって思っています。本編終了後、あとがきの解説を読んで益々解らなくなりました。こんな捉え方、あるのか。学術じゃないの?いいの、これ??ってなりました。ニーチェは言うのかもしれませんね「いいんです。これが私でツァラトゥストラなんです。」ってばっさり。

この本を読もうと思った経緯ですが、こんな感じです。
この本を読む前に一応、解説動画でどんな概要のものかは観ました。テーマは他の見る偉人の解説動画に似ていました。なので、内容似てるんだったら読まなくてもいいかなって最初、決めつけていました。油断していました。それから、最近古典を読んでないなって思い返している時に、「ツァラトゥストラ」が目に留まりました。
全部があの解説動画みたいなことだったのかなと疑問になりました。立ち読みで光文社古典さんのをパラパラとページ捲ってみると、頭に?が何個も出てきました。多分、この時点から、なんだこれは?が始まっていました。という訳で、購入して早速読み始めました。光文社古典さん、いつもありがとうございます、という気持ちでした。

今回は生涯の一部と、「ツァラトゥストラ」の本編についてを書いていきます。あとがきに関するものは、別で纏めるのでまたよければ、足を運んでいただければ幸いです。こっちでぽかんとさせられた、部分をだいぶ大きかったように思われます。

ニーチェについて

フリードリヒ・ニーチェは1844年にドイツ、プロイセンのレッケンで牧師の家庭に生まれました。幼いころから、所「なんでもできる子」として有名だったようです。見た目は子ども、中身は勉強はできる、詩、作曲のセンスは抜群、という本当に現実の話だったのかと思うような話でした。20前半で、ショーペンハウエルの「意思と表象としての世界」を読んで感銘を受けたとされています。

「意思と表象としての世界」は「読書について」や「自殺について」などの書籍をより専門的にがっつり総合的にまとめた、著者の渾身の一冊です。(これも当時本人の期待と裏腹に全く売れなかったとされています)
これを読めて理解できて感銘に到達できたのって、相当にニーチェは賢かったことを表わしていると思います。

23~24歳の間に一度、軍隊に入っていたようですが、負傷し、大学に復学して、その時にワーグナーの音楽を知り、彼と知人になります。「ツァラトゥストラ」が「歌い踊るよう」なのは此処に、起因しているからかなという気がします。

30代に多くの事が一度に、身に降りかかってきます。
20代後半に大学教授に推薦されて、飛び級でなったものの、授業に人は来ない、推薦された教授や友人に見放される、出版した本が全く売れない、女性関係が上手くいかない、慢性的な頭痛、胃痛、吐き気が日常的に続くという、破綻の一途を進んでいました。これが一度に来るのは結構酷な状況です。
そして、1883年6月に「ツァラトゥストラ」の第1部、9月に第2部、1884年に第3部、1885年に第4部を自費出版でなんと40部販売しました。
大盛況で一冊も残らず完売されたと思われますか?
お察しのように、一冊も売れませんでした。ところが、ここがニーチェの凄い所で、それを説明する補遺をさらに出していました。そして、知人や友人に配って読んでくれと嘆願して渡していたそうです。ショーペンハウエルにも似た、この只ならぬ気迫、居たら圧倒されます。

1889年1月3日、45歳の時にイタリアのトリノ広場で、鞭で痛めつけられている馬に駆け寄って、その首を抱きしめて大泣きして発狂して、気絶してしまいました。病院に運ばれ、意識は戻りました。ですが、心は完全に壊れてしまいました。そして、このとても悲しいタイミングでこの本は再評価されることになります。ですが、売れてもそれをニーチェは何一つ認識できませんでした。知人から「お前の本、凄い評判だぞ、売れたぞ!」と伝えても、本人はそれがなんなのかわからないため、「…」という無言の回答になってしまうという具合です。自分で書いた「ツァラトゥストラ」さえ何なのか、解らないというより、彼の中で知らないものになっているというのが正確な表現に感じます。そして、55歳という年齢でその生涯の幕を降ろしました。原因は確定していませんが、医師の所見では梅毒だったとされています。

ざっくり追った彼の人生ですが、いかがでしょうか?気に留まる個所はありましたか?私は「心が壊れる」という点に、自分が重なりました。心が壊れた時、相手に当たるか、自分で攻撃するかのどっちかになるとしたら、こんな風に当にそうなるかもしれないという気がしました。恐らくですが、鞭うたれている馬はニーチェ自身に見えたのかもしれません。
心が壊れた後というのは、なにも知覚もできなくなるのかもしれないと過去から未来を垣間見た気がします。

ツァラトゥストラについて 超人

さて、ここからは本編について書いていきます。ツァラトゥストラというのはゾロアスターをドイツ語読みしたものですが、宗教とは関係なく、これがニーチェの分身であるという点だけ気に留めて頂ければ大丈夫。だそうです。

皆さんはこんな言葉を聞かれたことあるでしょうか?「神は死んだ」。
ニーチェたちのような哲学者などが登場する前は、大前提に「神様」の存在が絶対としてありました。けれども、科学や地学、天文学などの神学以外の目覚ましい発展によって「神様なんていないのだ」と自分たちで証明してしまいました。
絶対がない=信じるものがない、になってしまいました。もっと噛み砕いた表現としては「頑張れば報われる」がそうじゃなくなったため、「何のために頑張るのかわからない」という絶望に陥る状態です。試験の為に頑張る、でも、頑張ったのに望んだ結果にはならなかった、何のために頑張ったんだ!っていうのがそれに近いかもしれません。これをニヒリズムというそうです。

ニーチェはこのニヒリズムがベースになった夢も希望もなくただ怠惰に無難に生きる末人に絶対なっちゃ駄目!というのを纏めたのがこのツァラトゥストラのようです。じゃあ何になれ?と言うのでしょう。みんな超人になれ、というのです。

1部と2部では超人思想の為に語った事が嫌になるくらい収載されています。では、超人とはというと、動画の言葉を借りるとこう纏められています。

不屈の精神、そして力強い意志を持ち自らの人生を肯定しながらより高みに向かおうとする存在のようなもの。はっきりとした定義は書かれていませんが、そこは読者の想像に委ねたのかもしれません。

その超人思想になるためのプロセスとして3つあるとされています。これを経て創造力のある精神をもつ大人でありましょうと提唱しています。

ステージ1 ラクダ
重い荷物を持って我慢する。自分の身に積極的な負荷を掛けて、そこで自分の強みを獲得する。忍耐や強みを磨く。

ステージ2 ライオン
窮屈な状態から解放されて自由を求める者が進む。既存の価値観、常識、権威に対してNoという独立の精神。

ステージ3 幼子 自らの創造力を身に委ね、勝手気ままに遊ぶ幼い子のような無邪気な精神。子どもにとって、世界は無条件に肯定されるもので、心のままにその瞬間瞬間を生きているものである。

とされています。ご覧になってみて、いかがでしょうか。
私はこれが、読書にも筋トレにもなんだか似ているなというように思われました。解説動画で区切って取り上げてもらったからそう思えたけど、なにもない本だけだったらそう思えなかった気がします。

筋トレぽいなと思ったのは、この後に出てくる「からだを軽蔑する人について」でどういう風に痛みを回避しようか、どういう風であれば快楽を感じるのか考える練習をさせられているというのや、身体というのではなく「からだ」と呼ぶことで自分自身に親しみを持っているのです。そしてからだは大きな理性であるとしています。筋トレやスポーツすると、精神が整うとよく聞きますがそれのポイントが、まさに「からだ」が理性だからなのかなというように結びつくように思われます。しんどい、きついをするものあると思いますが、散歩やジョギングのような継続させやすいものをするのでも大事だと思います。

からだは資本は本当にその通りですね。

ツァラトゥストラについて 永遠回帰

これは3部と4部の根幹になる所です。永遠回帰は、「人間にとっての最大の重し」と表現しています。
何かというと、名前のまま、「貴方は今の人生を永遠に繰り返している。前世も来世もずっと同じ無限ループの央を生きている」という意味です。これを仮説として、事実なのかどうかよりも大事なのは、貴方はそれを受け入れられますか、拒絶しますか。拒絶しても、そうなるんだけどさー。という具合です。

よほどの幸せで恵まれた人でもない限り、忘れたいことも失敗も嫌な事もあるでしょう。それをずっと経験し続けるのは過去がなかろうと嫌でしょうというのです。ただこれも捉え方次第では、最大の武器にもできますと言うのです。

ガチでループがあって二つの分かれ道があるとし、ずっと自分がネガティブになり続けて否定的で傷だらけで落ち込むしかない人生か、ずっと自分がポジティブで肯定的で成長し続けられる人生かどっちが良いですか。

大半は後者でありたいと思うのではないでしょうか。ただし、後者を選べば前を向いていくしかなくなるとも言えます。
先ほどの末人か超人かに近い話ですが、神の死んだ、即ち、信じられる絶対がなくなった世界で、末人にならずに肯定的に前向きである為の思考法とされています。その為には、末人になっても克服するのが肝ですよとされています。

それを表した一場面が「まぼろしと謎について」の2がその象徴のように思われます。
どんな場面か端折りながら書いていきます。
ツァラトゥストラは旅の途中で、牧人が倒れているのに遭遇します。そして、その口からは黒い大蛇の尻尾が見えています。当然、牧人は苦しんで悶えています。ツァラトゥストラは引っ張って助けようとしますが微動だにしません。助けられなくて、お手上げだと見捨てるかと思いきや、牧人に「蛇の頭ごと、嚙み千切れ!」と自分でやれと一喝します。そして、死闘の果てに嚙み切って吐き捨てました。ツァラトゥストラはそれをみてぼそっとこういったそうです。

もう牧人ではなかった。人間ではなかった。変身して、光に包まれていた。そして、笑った!この地上でこれまでどんな人間も笑ったことがないような笑いだった!

牧人はニヒリズムに囚われていた人間そのものを表わしていたようです。末人の思考、覚えていらっしゃいますか。「報われない、どうせ俺は、どうせ私は、どうせ自分は」という苦しみのループです。囚われると苦しむのは他ならぬ喰われている本人です。でも、自分を苦しめる蛇を自ら嚙み千切るので、窮地を脱したのです。
嫌な気持ちに蝕まれて悲観しかできなかった自分を自らぶった切って、良い方になると覚悟を決めて人生を否定的なものから肯定的、もしくはフラットに見られるように捉え直すことに成功したのでしょうとされています。

これが永遠回帰の思想を受け入れ、実践をして自分の人生の全生涯の肯定をするというものです。一番大事なのは、苦しい人生を目の前に死にたくなるほど絶望しても、「これが人生か。だったら、もう一度かかって来いよ。」と立ち向かう事とされています。

今生きてる瞬間も自分の人生なのだと自信を持って肯定できる、これまでもこれからこれでよかったんだと肯定できる、これから歩む先も歩いていける、更にここから永遠回帰する。ずっと人生が肯定され続けるというのが説かれています。
ニーチェは「およそ到達しうる限りの最高の定式」と呼んでいたそうです。楽ではないのは間違いないのです。でも、財産が目の前にあったとして、それを受け入れるなら選別してより丸ごとの方が嬉しくなるのではないでしょうか。

ニーチェの時代にも「そんなことは無理だ、できない」と言った人がいたのでしょうね。なので、こんな一言が記録されています。

たった一度で良い。本当に魂が震えるほどの悦びを味わったのなら、その人生は生きるに値する

シンプルかつ苦悩の多かった、なんなら最終的に心が破壊してしまった人物からの一言として、凄まじい説得力です。

まとめ

動画が先にあってよかったと本当に心から思います。本だけでは、この思想にたどり着くのにより時間が掛かったと思います。この点を踏まえて読んだから、まだ、「あー」という感嘆の声も出ましょうが、なかったら本当にきつかったと再認させられます。正直、もう一回読み直している今でさえまだ「なんだこれは??」を追っています。

感想を一言いうなら、思っていたほどに格式張っていなくて溌剌としているなということでした。超人思想にしろ、永遠回帰にしろ、一長一短でどうにかなる事でもないとは思います。
ニヒリズムでわずかに触れられているような気もしますが、大事なのは「蛇」の克服、言い換えれば、弱い時の最強の自分を全部洗いざらい出さなくてはいけないように思います。これ結構きついです。私もきっかけがあって、この作業をしました。毎日、とにかく思いつく限りの自責、ミスした事柄、どう感じた、などをひたすら書いていきました。だから、日頃から、日記付けてる方は無敵です。慣れからの負荷の掛け方と、急転ですることになったのでは、一気にするのでは重さが全然違います。ただ、どこかのタイミングでその精査はしなくちゃいけないものだったんだは、知ることができました。おかげさまで。
もう一つ大事なのは、時間です。それをやる時の時間もそうですが、もっと長い人生の中で今後どう費やしていくのかというのが長い目があるを知るのは凄く新鮮な発見でした。私の知っている詩の一部にこういうのがありました。

一粒の砂の中に世界を見
一輪の花に天国を見るには
君の手のひらで無限を握り
一瞬のうちに永遠をつかめ

ウィリアムブレイクの有名な一節です。私たちの時間って「砂」なのだと。その砂の中に何があるかが大切なんだと。

最後に動画でも掲載されていた一言をここに引用させていただいて、終わります。お読みいただきありがとうございます。

どうして私は、私の全生涯を感謝せずにおれようか。そしてだからこそ、私は私自身に私の生涯を語り聞かせようとしているのである。


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