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室生犀星「蜜のあわれ」

こんにちは。
少しずつ暖かくなりつつある季節が巡って参りました、皆さんいかがお過ごしでしょうか。
今回は、こちらの作品を読みましたので、それについてつらつらと書いていこうと思います。だいぶ前に一回目を通しているのですが、うろ覚えなので改めて読みました。

本文に入る前に、少しだけ四方山話。

実生活でちょっとした衝撃を受けたことがありました。知人に本のおすすめを訊かれたことがありました。ほとんど読まないことをなんとなく心の片隅に置いたうえで、これなら読みやすいかなと思い「宮沢賢治の本、銀河鉄道の夜、とかどうですか?」と提案しました。返答は「宮沢賢治ってどなたですか?」と返されて、内心「((((;゚Д゚)))))))」というような顔文字が適当と言えるくらいに驚きました。と同時に、「そうか、本を読まない人にとっては、誰なのかすらわからないのだ。」という個人的にはある意味、収穫がありました。本を読む人でもおそらく少なからず「名前は知っている」という言われ方をされる(と思います)が、読まない人には本以前に人物が誰かということも不明な点になるという事を知ることができたのでいい勉強になりました。
その後、読んでいるのかはあずかり知らぬところではありますが、多分、読んでいないであろうなとは予想します。

室生犀星について

この作者について簡単なご紹介をさせていただきます。
室生犀星は1889年、石川県生まれの日本の詩人、そして小説家です。本名は室生 照道(むろう てるみち)です。代表的な作品は「愛の詩集」「抒情小曲集」(詩)「杏っ子」や今回、書いていく「蜜のあわれ」などがあります。絶筆は「老いたるえびのうた」とされています。1962年に肺癌で亡くなられました。一層詳しい経歴はこちらにてご覧くださいませ。
北原白秋の影響を強く受け、萩原朔太郎と仲が良かったとされています。萩原朔太郎の最初の室生犀星の印象は結構ストレートに書かれています。

郷里の停車場で始めて逢つた時の室生は、詩から聯想してゐたイメーヂとは、全でちがつた人間であつた。私は貴族的の風貌と、青白い魚のやうな皮膚を心貌しんばうに畫いて居た。然るに事實は全く思ひがけないものであつた。妙に肩を怒らした眼のこはい男が現はれた時、私にはどうしてもそれが小曲詩人の室生犀星とは思へなかつた。
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室生の最初の印象は甚だ惡かつた。容貌ばかりでなく、全體の態度や、言葉づかいや、言行からして、何となく田舍新聞の記者とかゴロツキ書生とかいふ類の者を思はせる所があつた。

萩原朔太郎全集 第八卷

萩原朔太郎は最初に雑誌に載った彼の詩を名前を見て知り、気に入った後に実際に会ったたらなんかイメージと全然違う見た目であることに最初にダメージを受けたようです。今し聞かないあまり聞かなくなった「ゴロツキ」というだけあってかなり印象悪かったようでした。けれども、それは最初だけで、室生犀星自身の持つセンスには殊更惹かれていたようでした。

始め不快であつた彼の怪異な風采が、次第次第に快美なリズムに變つてきたのは不思議である。今の室生は勿論、全體に於て昔の金澤時代の彼とは變つて居るが、とにかく彼の容貌には、どこかヱルレエヌやベトーベンに見るやうな、藝術的の「深みある美しさ」があることを、近來になつてしみじみと感じてゐる。ほんとの美といふものは、矢張人格や心性からくる者であつて、單なる皮膚や肉づきから生れる者ではないやうだ。「偉人の容貌には奧深き美がある」といふことは、たしかに眞實である。
 室生のやうなユニツクな個性をもつた人間は、百萬人に一人も居ないと思ふ。北原氏は室生を評して「自然兒」と言つてゐるが、この言葉は彼の性格のある一面を最もよく説明してゐる。ホイツトマンでも、ヱルレエヌでも、詩人の性格にはどこか皆純樸な子供らしさや、ナイーヴな野蠻めいた所や、エゴの強いお坊つちやんらしい所のある者だが、とりわけ室生にはさうした方面の傾向が烈しいやうだ。併し彼はまた一面に非常に涙もろい處女のやうな優しい心をもつた男だ。それは彼が長い間逆境にあつて苦勞したためである。苦勞した人間と、苦勞しない人間(世間的生活的の意味でいふ)とは、他人に對する「思ひやり」や、氣の毒な人たちに對する心のもち方ですぐわかつてしまふ。同じエゴイストでも、苦勞した人はどこか他人に對する「思ひやり」が深い。
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室生を知つてゐる人は、だれでも皆彼を賞めるが、よく知らない人や、一度か二度位しか逢つたことのない人は、たいてい變な顏をして、一種の怪奇な人物のやうに彼の噂をする。それは彼の性格が、あまりにざつくばらんで、あまりにナイーヴでありすぎるからだ。彼には遠慮とか氣がねとかいふ世間的の感情は殆んどない。電車の中でも何でも、大きな聲で婦人の月旦をする。そのくせ非常に神經質で小さいことに氣のつくことは驚くほどだ。たいていの詩人は、皆ナイーヴな自然兒らしい一面と、非常に神經質な感覺的の一面とをもつてゐて、その兩方からリズムを組み立てて行くのだが、室生の如きも、この點で申し分のない詩人的天稟をもつた人間である。

萩原朔太郎全集 第八卷

めちゃくちゃ会う前より気にっているじゃないかと思わず言いたくなりました。
*他にも萩原朔太郎が室生犀星を評価したお話が青空文庫さんに掲載されています。

詩集はわりかしと書店やネットで見かけるのですが、小説の方は扱ってるところが中々に少なくて見つけるのに時間が掛かりました。なんせ、絶版になっているところの多い事多い事。探し出した始の時は、あまりの少なさに心が折れまくりました。ここらでは、図書館すら見つかりませんでした。金沢に行ったらあるのかな、としみじみ思います。

「蜜のあわれ」について

講談社文芸文庫でなんとか発見して買えました。感謝感激でした。この小説の謳い文句は「会話で構築する艶やかな超現実主義的小説」とされています。最初に書かれたのは1959年(昭和34年)に『新潮』1月号より4回連載されました。この時、室生犀星は癌とすでに闘病しているときに重なっているようです。ちなみにこの作品は当時映画にもなったそうで、監督も務めていたようです。検索をかけてみても、最近の方しか表示されません。
また、室生犀星による後記に「炎の金魚」があります。これに関してはぜひ本編の後に実際に読んでみて頂きたいです。
さて、こちらの面白いのは物語の進行がすべて対話、会話で成り立っています。登場するのがほぼ決まった人物のみです。老人の作家「山上」、金魚が女の人になった「赤子」、金魚から「おばさま」と呼ばれる老婦人、金魚売のおじさん(わずかな場面のみ)だけです。それでも、どこにだれがいて、どういう風に話していて、およそいつごろの時間帯なのかが推測できるので面白いです。それにハッと気づくと文章から作り出す凄さというのが伝わってきます。
私が感じたことですが、話している人たちだけが相対しているわけではないように思いました。後記を読んでから、そう思いました。両方読み終わった後に、登場者の後ろに影が見えました。室生犀星が本当に書き残したかった事はこれなのかもしれないと私は思いました。
河童や狐、烏などの生き物がしゃべるものはありましたが、金魚が人に化けて人間と暮らすという発想も当時はかなり少なかったのではないかなと思われます。今のところ、私は見つけられていません。

珍しい書籍ではありますが、気になってくださった方はぜひお手に取ってみていただきたいです。読んでいただきありがとうございます。

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