少年院卒の私を愛した祖母の話
明日、5月20日は祖母の80回目の誕生日だ。
もうこの世にはいないが、あの世からロクでもない孫を忙しなく見てくれているだろう。
私は家庭の事情で、祖母に育てられた。
母でもなく、親でもない。
しかし、私にとっては母であり、親であり、そして唯一の支えであった。
こんな孫に最後まで愛してると言い続けた、変わった祖母を紹介しよう。
愛しなさい、見返りはない。それでも愛すのよ。
私から見ると、祖母はマザーテレサのようだった。
お金がないと言われると、その日知り合った人にも貸していた。
返ってこなくて構わない。
なぜなら、食べれないことは悲しいことだからだ。
誰かの悲しみを減らせるなら、たったいくらかくらい容易い御用だと、そう言っていた。
15歳から死ぬ半年前まで仕事を掛け持ちし、株を運用し、社員になったことは一度もないのに、遺産は数億あった。
そしてそのお金のほとんどを、誰かにあげていた。
募金や支援、人助けのために使い、自分のためにお金を使っているところはほとんど見たことがない。
そんな祖母に初めて恋愛相談をする日があったのだが、相談内容は「初めての彼氏が浮気症のDVだ」という祖母としては聞きづてならない内容だ。
母は発狂し別れろと騒いだが、祖母はこう言った。
「愛しなさい。見返りはない。それでも愛すのよ。」
まあ、バカなんだろう。
だが、いい意味でのバカだ。ぶっ飛んでいる。
そうして私は祖母に言われた通り、彼を愛し続けた。
どんなに背を向けられて裏切られても、私だけは誠実に彼だけを見ていた。
その結果、私が過去付き合ってきた人は全員、私と別れた後、今でも独身でいる。
彼女すらいない。
どうしてかと思うが、正直、私以上に人を愛せる人はいないからだろう。
祖母は常々、期待するなと言っていた。
人は経験を積む毎に、自分に驕りを抱いていく。
偉そうに、一丁前に、いつからか感謝も忘れて全てを当然だと思い始める。
してもらって当たり前、できて当たり前、いつも通りで当然。
しかし、そういかないこともある。
そんなとき相手のせいにするのは、相手に期待しているからだ。
期待し、見返りはあって当然だと信じている。
勝手に脳内オナニーしているだけなのに、セックスできないのはお前のせいだ!と騒いでいるのである。
あぁ、痛すぎる。
人は人、自分は自分だ。
あげたものを返せというのはダサいのと同じで、愛する人に愛を返せというのはダサい。
愛は減るものじゃないんだから、くれてやればいい。
お金は回りものだ、足りないなら身を粉にして稼げばいい。
見返りを求めている時点で、あなたは相手を愛していない。
それはあなたのエゴを押し付けて自己満足しているだけの、オナニーに過ぎないのだ。
伝えなさい。声に出しなさい。人はひとりじゃ生きていけない。
私は病的に内気な子どもだった。
今でも、言いたいことを言うのは得意ではない。
しかし、言わなくても分かってもらえるだろうと思っている節があった。
親に対しても、彼に対しても、友人に対しても、ここまで言えばあとは分かるよね、と期待していたのである。
だが、その期待が叶ったことはほとんどない。
そりゃそうだろう。
言っていないのだから、分からなくて当然である。
しかし、私は言う、伝える、という選択をせずに、誰にも何も言わずに独りで生きることを選んだ。
全てを自分で解決しようとし、何もかもをひとりで背負ってきた。
そうして生きることはできるが、限界がある。
コップから溢れた水はすくうことも、戻すこともできない。
キャパシティーを超えてしまえば、人間は壊れるだけだ。
そうして発狂する私を見て、祖母はこう言った。
「伝えなさい。声に出しなさい。そのために口が付いているのよ。人はひとりじゃ生きていかれないんだから。」
最初は怖かった。
自分の思いを相手に伝えると、嫌われるんじゃないかという恐怖で頭がいっぱいになった。
だが、よく考えてみれば、70億いる人間全員に好かれようと思う方が、無理な話ではないだろうか。
嫌われてもいいと思うようになってから、人と話すのが楽になった。
私を好きな人間がいるのだから、嫌いな人間もいて当たり前だ。
気に食わない奴もいるだろうし、心底恨んでいる人間もいるだろう。
だから、なんだ?
それが一体なんだというのだ。
私は頼られるのが好きだ。
甘えられるのが好きで、お願いされると自分のことを後回しにしてでも手を差し伸べたいと思ってしまう。
それが信頼であり、愛の証だ。
ならば愛には愛でお返しし、信頼には背を向けることなく応える。
それが私という人間であり、私の生き方である。
誰しもひとりでは生きていけない。
人の話を聞くために耳があり、気持ちを伝えるために口がある。
言葉にならない思いを伝えるために目があり、優しさを分け合うために手がある。
愛を伝え合うためにセックスをし、人を助けるために足がある。
自分が今持っているものは体を含めて、全て誰かのためにあるのだ。
それを自分のためだけに使っていれば、他人も自分のためにしか使わなくて当然だろう。
言いたいことを言うのは、正しいことだ。
言っていることが正解か不正解かはさておき、思いを口に出すことに罪はない。
嫌われろ。大嫌いだと恨まれたらいい。
それでも絶対に背を向けてはいけない。
やったことがそっくりそのまま返ってくるのが、人の生きる道だから。
ばあちゃんの最後の言葉は「誰よりもあなたを愛してる」
私は祖母の介護をひとりで全て行なったが、それは私から祖母への最後の孝行だった。
母や家族が手を貸そうとしたこともあったが、金銭的にも体力的にも私は全て自分でしたかった。
させてほしいと、お願いしたのだ。
貯金は全て吹き飛び、仕事はろくにできなかった。
クライアントには迷惑をかけ、友人とは祖母が亡くなるまで一度も会わなかった。
美容院に行くこともなく、遊びにも行かず、祖母に残された時間をどれだけ一緒に過ごせるかだけを考えていた。
祖母が亡くなる前日、朝の6時。
モルヒネで意識が朦朧としている祖母は朝日に当たりながら、泣いて、私にこう言った。
「世界中の誰よりも、あなたを愛してる。愛してるわ。」
もしも神様がいるなら、生かしてくれと心から願った。
人に対して「死んでほしくない」という感情を抱いたのは、それが初めてだった。
けれど、人は生まれたその瞬間から死へ向かって生きている。
遅かれ早かれ、人は必ず死ぬ。
別れがある。
だから一期一会という言葉が存在し、思いやりがあり、愛がある。
お金で買えないものの方が大切だと潜在的に分かっているのは、いずれ死ぬと誰しも理解しているからである。
大切にする、というのは難しいことだ。
シンプルなくせに、上手くいかないことの方が多い。
だからこそ、大切にする価値がある。
思い悩み苦しんで、それでも前へ進もうとすることこそが、大切にするということなのだ。
愛は絶対に、人を裏切らない。
まとめ
少年院に入ったことを手紙で祖母に伝えたとき、祖母からの返事はこうだった。
「あなたが今いる場所を私は知りません。知っているのは、罪を犯したものが送られる場所だということだけです。ですが、どんなあなたも私は愛しています。たとえ世界があなたを嫌っても、恨んでも、死んでしまえと願っても、私はあなたが幸せに暮らせるように生き続けます。私にできることはありますか?」
私は幸運な人生を送っている。
この世で最も愛を知る人に育てられ、その愛を一身に受けて生きてきた。
大切なのは、大切にすることだ。
自分を、相手を、環境を、人生を、全てを愛すことで前へ進んでいくのだから。
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