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いじめる側もいじめられる側も経験して思うこと

私は今では想像が付かないほど、内気で無口な子どもだった。

特に両親が離婚してからは、学校へ行っても友人と一言も口をきかない日もあった。

いじめを受け始めたのは両親が離婚してすぐの、小学校4年生から。

中学2年生で非行に走るようになってからは、いじめる側に回った。

昨今のいじめのほとんどが、死に直結するほど陰湿で残酷なものになっている。

悲しいが、いじめがこの世から無くなることはないだろう。

人は人に対し、優劣を付けたがる生き物だ。

特に若い頃は視野も経験も少なく、学校という閉ざされた世界の中で子どもは自分の存在意義を見出そうとしている。

自分より劣っている、自分より優れている、そんな感覚からいじめが生まれることを根絶する方法は存在しない。

だが、いつも言っているが、物は考えようだ。

子どもを救えるのは、大人だけである。

大人の皆さんに、どちらも経験した私の意見をお伝えしよう。


いじめられる方にも、いじめられる理由がある


悪いが、綺麗事を言うつもりも、いじめられている子どもを擁護する気もない。

思っていることしか言わないので、今後、言葉がきつくなってしまったら申し訳ない。

先ほども述べたが、人間は他の人に対して優劣を付けたがる生き物だ。

会社にも「あいつは仕事ができない」「私はめちゃめちゃ仕事ができる」と偉そうに言っている人がいるだろう。

いじめも同じ思考で、いじめる側は自分よりも劣っている人間をターゲットとしている。

ということは、だ。

いじめる側は少なからず、いじめる人間を選別している。

どこかしら自分よりも劣っていて、いじめやすい人間。

自分が相手よりも上に立つことができて、そうすることで自分の存在意義を見出せる人間。

そんな人を選んでいじめている。

いじめる側が相手を選んでいるということは、いじめられる側には選ばれるだけの理由があるということだ。

たとえば、私のように極端に内気で無口な場合、なにをしても反撃してこない。

いじめやすいことこの上なく、どんなにやっても先生にチクられる心配がない。

要は、安心して自分が上に立てる相手なのだ。

よく「いじめられる側にも理由がある」と言うと、発狂する人がいる。

綺麗事を抜かすだけなら「いじめる側が100%悪い」と私も言うが、綺麗事だけを言っていても自殺する子どもが減るわけではない。

先生たちは一度いじめる側の立場に立って、「いじめやすい子ども」という視点で生徒を見てみたらいい。

簡単に分かるだろう。

そういった生徒に注視していれば、優劣を付けたがる人間がどの子どもかも必然的に見えてくる。

では、指導が必要なのはどちらの生徒だろうか?


心に問題を抱えているのは、圧倒的にいじめる方


どちらにも問題があるのは当然だが、いじめる側の方が圧倒的に心の闇は深い。

自分に自信がある人間は、他人に優劣など付ける必要がないことを理解している。

たとえ子どもでも、だ。

人は潜在的に生きる意味を求めながら生きているので、他人と優劣を付けることは無意識に行なっている。

しかし、自分に自信と誇りがあれば、優劣がどれだけ価値のないものかも知ることとなる。

自分に一切の自信がなく、生きている価値を見出せず、誇りすら持てない。

となると、その矛先が他人や環境へ向くのは当然で、非行に走った少年少女が「親が悪い」「学校が悪い」「私は間違っていない」と言うのは、そのためである。

誰かのせいや何かのせいにしてしまえば、生きやすくなるのは当然だろう。

なぜなら、理由を正当化することで自分の存在に自信を持てるからである。

しかし、悲しい哉、そういう人間は一生、理由を正当化しながら生き続けなければならない。

そうすることでしか自分に自信を持てない人間は、いつまで経っても他人に優劣を付けて人を踏み台にしなければ生きていけないのである。

この辺の真理に気付いていない人間が上司になると、部下は死に追いやられるわけである。

それが夫だったら、妻だったら、親だったら、ハラスメントないしネグレクト化するのは当たり前だろう。

では、そういう人間を早い段階で減らすために、先生になにができるか。

正直、いじめられる側のことなど放っておいていい。

いじめさえ受けていなければ、普通に学校へ通い普通に暮らしていける子がほとんどだからである。

たとえ学校生活がつまらなくても、いじめさえなければ学校へ行く子どもは腐るほどいる。

問題解決を目指すのであれば、指導するべきはいじめる側の子どもだ。

親との関係、彼や彼女の見ている景色、なぜ他人に優劣を付けたがるのか、自分に自信や存在意義を見出せないのはなぜなのか。

それらを知ることで、子どもに優劣を付けさせることなく自信を持たせることができる。

いじめる側のほとんどの背景には、親がある。

貧困や虐待、逆に優秀な家に生まれて虐げられていたり、自分もそうならなければならないというプレッシャー。

子どもにとってこの世はたったふたつ、学校か親しかないのだ。

そこに理由があるのは確実で、問題を解決できるヒントもそこにしかない。


何度言っても分からないなら、見捨ててしまえばいい


最近の親は神経質で自分に自信がないから、自分の子どもも信じていない。

それを他人や先生、学校のせいにすることで、自分と子どもは間違っていないと確認したがる傾向がある。

どうでもいい、くだらない親が増えすぎだ。

そもそも躾として手をあげるとき、多くの場合「他人や物を傷付けてはならない」という意味で手をあげている。

嘘をつくことも、物を壊すことも、他人に暴力を振るうことも、やるべきことをやらないのも、自分だけでない誰かや何かを傷付けている。

それらの理由なしに自分の感情だけで叩くから、虐待になるわけだ。

先生だって親だって、最初から頭ごなしに叩くわけではないだろう。

(もちろんそういう、人として欠落した人間がいるのは百も承知だ。そんな人間は早めに死ぬようにできているから、どんどん排除したらいい。税金で養うのも無駄だから、虐待して子どもを殺した親は総じて死刑でいい。)

最初は口で言って聞かせ、それでも何度も同じことをするから、手が出るわけだ。

大人にもいるが、「言っても分からない人間」というのは一定数存在する。

ゴリラの群れをよく見てほしい。

複数の家族がコミュニティーを作って群れとなっているが、最初は親子関係なく大人が子どもを注意する。

悪いことをすれば叱り、時に手をあげて「ダメなものはダメ」と教える。

それでも分からない場合どうなるか。

見捨てるのである。

置き去りにし、見捨てて、先へ進む。

そして二度と、そのコミュニティーには参加させない。

残酷に感じられるかもしれないが、ゴリラたちはそれまで何度もそいつに対して情をかけ、時間をかけ、気をかけて言い聞かせてきた。

それでも気付かず、分かろうとしない。

そんな奴に対して見捨てるという選択をすることのなにが、残酷だというのだろうか。

子どもだから、と言っている人をよく見かけるが、子どもにも人は殺せる。

人の一生を奪うことは簡単にできるし、子どもだからと言ってしまえば、その子は「子どもだから許される」と自分のしていることを正当化し始める。

そうしてロクでもない人間が形成され、今度は社会で、会社で、他人をいじめ始めるのである。

上司だから、夫だから、妻だから、親だから、そうして理由を正当化して死ぬまで他人を傷付けていくのだ。

何度言っても分からない、何度訴えても聞く耳を持たない、そんな子どもがいたら、見捨ててしまえ。

「あなたは人を傷付けている。そうしてはいけないと何度も言ったのに、あなたは変わろうとしなかった。申し訳ないが、そのような人間をここに置いておくわけにはいかない。世界の中心はあなたじゃない。」

そう拒否してしまえば、行き場がなくなる。

死ぬ子もいるだろうし、発狂する子もいるだろう。

親に泣きつく子もいるだろうし、先生のせいだ!あいつのせいだ!と喚き散らす子もいるだろう。

だからなんだ?なにが間違っている?

見捨てられて当然だ。

しかし、人間は動物でも理性がある。

衝動を抑えることができるし、感情だけでなく理性で物事を考えることもできる。

それが人間の良いところで、見捨てる先にも手を差し伸べる方法はあるのだ。


見捨てたフリができるのが、人間に更生のチャンスが与えられている理由


かくいう私も元犯罪者なわけで「見捨ててしまえ!」と言われると、「おいおいまじかよ…」と寂しい気持ちになる。

ゴリラも人間も同じ動物であるが、人間には唯一理性がある。

セックスしたくても、公共の場で衝動的に人を襲う人間はいない。

いるにはいるが、そいつらの話は論外だ。

どうするべきか、どう動くべきか、なにをしたら望みが叶うのか、そんなことを考えるとき、人は感情だけでなく理性も使って思考を巡らせている。

それが人間の良いところなのだ。

見捨てるのは簡単だ。

見捨てるまでは思い悩むかもしれないが、排除してしまえばそこにいる全員が楽になることは間違いない。

しかし、それでは寂しいだろう。

情が残ることもあるだろうし、行く末が気掛かりなことも大いにある。

そこで人間だけにできる解決法が、「見捨てるフリ」だ。

特に子どもにはこの方法が効果的で、大人の場合は見捨ててしまえばいい。フリなど必要ない。

ただし、ひとつだけ注意点がある。

絶対に、中途半端な見捨て方をしてはいけない。

絶対に、だ。

一歩間違えれば口だけだと思われかねない危険なチャレンジではあるが、その効果は絶大だ。

しかし、注意点には細心の気を遣いながら行ってほしい。

学校に居場所のなくなった子どもは、家庭に居場所を求めるかもしれない。

その期待に応えられない家庭であれば、子どもは家を出る(非行に走る)か死ぬだろう。

もしくはネットに居場所を求めるかもしれないが、そうなってくれたら万々歳である。

今の時代は学校で無駄なことを学ぶくらいなら、ネットの知識を身に付けてメシを食うことはいくらでもできる。

最も避けたいのが、死ぬことだ。

だが、人をいじめるような人間はそう簡単には死なない。

優劣を付けたがる人間は、無意識に常時、対象物を探している。

その矛先が自分に向くと「死」という概念が生まれるのだが、「自分は劣っていない」という証明をするために生きている人間にその概念はない。

矛先のほとんどは親か社会へ向く。

罪を犯せばいいし、逮捕されればいい。

そうしなければ分からないのなら、いくらでも捕まってどうぞ。

逮捕された先にも、彼らを救う手立てはある。

そんなクソ人間を更生させようとしているのが、刑務官だ。

彼らは素晴らしい人間だと思うし、彼らは誰よりも情深い人間であろう。

だからこそ感謝しているし、これからもなるべく力を使わせないようここからできることをしていく。

人は誰しも、ひとりでは生きていけない。

家族がいる、親がいる、結婚している、そんなくだらないことではない。

社会という場所で生きている以上、接する人間がゼロになることは絶対にない。

ネットを介して仕事をしても、請け負う人間と依頼する人間がいる。

WEB媒体のライター契約は顔合わせもしないことが多々あるが、ネットを介して人と人の繋がりは存在する。

たとえ見捨てたとしても、人間は70億人いるのだ。

どんな人間にも必ず手を差し伸べる人がいるし、最終的に誰も手を差し伸べないような人間ならば、そうなって当然なだけの理由があるのだろう。

ハリーポッターのとあるシーンで、主人公のハリーが死んだとき、ベンチの下に小さく丸まったヴォルデモートがいた。

血まみれで震え、今すぐに助けないと死んでしまうような状態だ。

そんなヴォルデモートを見たダンブルドア校長は、ハリーにこう言った。

「救いようがない人間というのは、一定数いる。仕方がないというのは、諦めることでなく前へ進むことなのだよ。」

相手にとっても、自分にとっても、だ。


自分が変われない理由を他人のせいにしている人は、いつまで経ってもそのまま


発狂する親、それを利用する子ども。

この親子が幸せになれることはないし、自分の存在意義を見つけられる日も来ない。

私が逮捕されたきっかけは友人によるチクりだったわけだが、あいつのせいで…と一生恨むこともできる。

両親が離婚したから、頼んでもないのに名家に生まれたから、友人にチクられたから、私の人生が他の人とは違う理由を探そうと思えばいくらだって見つけられる。

しかし、それで事態が好転するのだろうか。

絶対にしない。

断言する、やるだけ無駄だ。

明日死なない保証などどこにもないのに、身も蓋もないことに時間を使うのは賢いといえない。

嫌なら行かなきゃいい、気に食わないならやめたらいい、逃げ続けることは決して不正解ではない。

逃げ続けた先には「逃げ続けた」という成果が残る。

そこから見える景色は、自分の力で手に入れたものだ。

無駄じゃないし、必ず結果につながる。


まとめ


結論から言うと、いじめられる方もいじめる方もお互い悪い。

人のせいにしているからだ。

いじめられるのが嫌なら、学校になんて行くな。

親が心配する?

親は死ぬまで心配している、今に始まったことではない。

迷惑をかける?

人は息をしているだけで二酸化炭素という毒を撒き散らしているのだ、そもそも存在が迷惑なのに何を言っている。

勉強したいならYouTubeで検索すればいいし、学歴が欲しいなら卒業資格を取得すればいいだけだ。

友人などいくつになっても作れるし、人となりが良ければ頼まなくても人は自然と集まってくる。

人をいじめなければ自分の存在意義を見出せない奴は、クズだ。

やめてほしいと言ってもやめないのであれば、ゴミクズより存在価値などない。

そんな奴らのために命を捨てるな。

構うな。

相手にするな。

逃げろ。

親や先生が聞かないなら、親と先生も捨てちまえ。

そんな親と先生に価値などない。

人と自分を比べても得られるものは、ネガティブなものだけだ。

決して自分を良くはしてくれない。

自分はどうしたいのか、どう在りたいのか。

それだけを考えて答えを出せば、自ずと自信は付いてくる。

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