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投げられた石にとって、上っていくことが良い事でもないし、悪い事でもない
自省録にはこんな言葉がある
「投げられた石にとって、上っていくことが良い事でもないし、悪い事でもない」
と。
ぼくは最初にこれを読んだ時、馬鹿にするような気分になった。
なぜなら、僕たちは石ではないからだ。
単なる客観的な物体ではなく、主観が存在する。
だから、こんな言葉は無意味だと思った。
しかし、最近はその主観においてさえ、石のように、
昇ることも落ちていくことも、無意味なのだという
感覚が
目標達成という自傷行為
目標を達成する、したい、と思うことはある意味で、
今の自分ではダメだ、と思うことであり、
現在の自分への自傷行為だと言える。
では目標は達成しない方がいいのか、
というと、そういう事が言いたいわけではない。
僕が好きな夏目漱石の言葉に
”花は咲く。馬は走る。人は書く。
自分自身に為りたいが為に。”
という言葉がある。
要するに、自分ではないもの、になるのではなく、
自分の中に元々ある、ポ
「ポンコツで天才!」エセイ
私たちは「ポンコツで天才」である。
というか、
そう思った方がいいと、ぼくは思っている。
「自分はポンコツで馬鹿で無能なのか?」
それとも
「もしかして天才?」
とか。
なんかそういう事って、たまに気になって考える。
それに、ただ気になるだけではなく
自分の生きる態度にも、そういった自己認識は
関わってくる。
天才だとしたら、もっと前に出て頑張った方がいいのかな?とか。
馬鹿なら馬鹿なりに出し
「自己責任論への抵抗」エッセイ
「他責は無能」
ぼくはこういった言説に異を唱えたい。
完全否定したい。
自己責任論は、大抵頭がいい人、社会的に地位の高い人達が
唱えているように思う。
実際頭は良いのだろうけど、心が見えているのかな。
僕は自己責任論にドップリと浸かっていた人間だ。
いや、浸かろうとしていた人間だ。
でも無理だった。
だってどう考えたって違和感がある。
自己責任が良いとされる理由は
「他人のせいにしても何も
「誰でもない私」エッセイ
ふと、
「自分は一体、何者なのだろう」
と、底の抜けたような不安感に襲われることがある。
自分が何者かなんて、答えは決まっていて、自分は自分でしかない。
今見えている自分。現実。過去。
未来まで含めるとややこしくなってくるけれど、
まあ、今のところ自分というのは、
自分の身体であり
自分の声であり
自分の所属する団体であり
自分の考えや感情、発言、
時間の使い方やお金の使い方、であるわけだ。
「普通って普通じゃない」エッセイ
ふと、普通って普通じゃないな、と思う。
一般的に言われるいわゆる”普通”って、たとえば大学に入って、新卒で就職して、最初は20万くらいもらって、結婚して子供つくったいり、昇進したり、転職したり、みたいな。
でも、そういう”普通”を手に入れるためには、結構頑張らないといけない。
そもそも大学の進学率は全体の半分くらいだ。この時点で普通とは?と思う。
最近では奨学金で苦しめられる学生が声を挙げたりし
エッセイ「世間とは必要な茶番」
世間体や社会、一般的な評価。
これらが一体何なのか、正直よくわからなかった。
それなのに、自分に対して、なぜか影響力だけはあった。
いや、わからなかったからこそ、怖かった。だから従うしか
無かったのだろうと思う。
世間とは、社会とは、一般とは。
僕はこれらが、必要な茶番だと考える。
茶番だが、必要なのだ。
例えば学歴。
学歴は一般的に賢さの指標として使われる。しかし、学歴や偏差値が物語るの
ショート「飴やスルメ」
窓外。雨粒が教室の箱を打ち付けて、二人に流れる空気を圧迫している。ふいとこちらを覗いたような、それとも、もう少し先を覗いたような彼女の目が、判断もつかぬ間にまた窓の外に向けられた。
ただ数舜の出来事も、強く、早く波打つ鼓動が長く感じさせる。
「百合川さ、知ってる?鼠の寿命は短いけど、脈動数は人間と同じくらいなんだ。」
「ふうん。」
「だからさ、きっと人間とは時間の感覚が違って、たとえ一瞬でも、