エッセイ「世間とは必要な茶番」

世間体や社会、一般的な評価。
これらが一体何なのか、正直よくわからなかった。
それなのに、自分に対して、なぜか影響力だけはあった。

いや、わからなかったからこそ、怖かった。だから従うしか
無かったのだろうと思う。

世間とは、社会とは、一般とは。

僕はこれらが、必要な茶番だと考える。
茶番だが、必要なのだ。

例えば学歴。
学歴は一般的に賢さの指標として使われる。しかし、学歴や偏差値が物語るのは、単に試験の問題を解く力と、世間体や一般的評価に対する意欲である。
賢さの指標にするには、あまり正確とは言えないと思う。
そもそも、賢さの定義自体曖昧で、そう簡単に捉えられるものではないだろう。
それでも、この指標は”便利”で”効率的”だと思う。

賢さという概念が捉えようがないからこそ、人は人が賢いかどうか判断する”わかりやすい””共通した”基準を欲しがる。

要は、人間はそんなに賢くないということだ。
いちいち、その人が本当に賢いかどうか、正確に判断なんてしていられない。
だからできるだけ、早く、分かりやすく、共通した指標を欲しがる。

それに都合の良いのが学歴というわけだ。
それは就活におけるアピールポイントとか、結婚における年収とか、
そういったことにも当てはまる。

正確に何が本当に”優秀”なのか”幸福に繋がる”のか。
それはわかりずらい。
考えるのも面倒である。
だからとりあえず、なんか安定してそうな会社や、年収や、
見た目など、目に見えて分かりやすい部分で決める。

まったく茶番である。
しかし、正確性だけ求めていたら、いつまでも
決められない。
だから、この茶番はまさに”さっさと決めるために”必要だ。

個人的には、もう少し正確性があってもいいと思うところだが。
どのあたりが正確性と都合の塩梅のとれた”効率的な”妥協点なのか、これまた難しいところでもあるだろう。
というか、人や状況による。

、、、とはいえ、世間的な基準、社会一般の基準。何もこれらは絶対的ではない。人によるし、会社によるし、世間による。

馬鹿みたいだと思ったとしても、自分に必要な世間的評価を得る事。自分にとって適切な評価の効率性を持つこと。
これらは必要だから、頑張ってやるしかないのだろう。このあたりを結論にしておくのが、僕にって、正確性の妥協点だろうか。



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