ショート「飴やスルメ」

 窓外。雨粒が教室の箱を打ち付けて、二人に流れる空気を圧迫している。ふいとこちらを覗いたような、それとも、もう少し先を覗いたような彼女の目が、判断もつかぬ間にまた窓の外に向けられた。
ただ数舜の出来事も、強く、早く波打つ鼓動が長く感じさせる。

「百合川さ、知ってる?鼠の寿命は短いけど、脈動数は人間と同じくらいなんだ。」
「ふうん。」
「だからさ、きっと人間とは時間の感覚が違って、たとえ一瞬でも、すごい密度で、長く感じられるんだよ。」
「うん。」
「要はさ、鼠も密度的には、人間と同じくらいの人生を生きてると思うんだよね。」
「そっか、、、なんで今、その話?」
「ああ、ごめん。」
斜線を描く雨粒が風の勢いを知れせている。
「寒いね。」
百合川が少し震えながら言った。
「寒い時って、心まで凍えそうで嫌になる。」
オレは黙り込んで百合川の顔を見た。
教室で百合川が喋っているのを見た事がなかったが、彫刻みたいな端正な顔立ちに、何か堅く、優美なものを期待していた。
「意外と詩的なこと言うんだね。」
「詩的?うん。意外なんだ。」
心底どうでもいい様な、むしろどうでもいいとすら感じていない、気の抜けた響きがある。
「高橋さ、温まる一番いい方法知ってる?」
「わかんない。」
「人肌だって。」
「ああ、それは知ってる。、、、あ。」
百合川の顔が少しだけ暗く歪んだ気がして嬉しかった。
「舐める?」
百合川は鞄から飴玉を二つ取り出して、一つを差し出して見せた。
「ありがとう。いつも舐めてるよね、飴、、、授業中も。」
「なんで知ってんの?」
百合川の少し濡れた目が、顔の横に被さった髪の隙間から光っていた。心臓がぎゅっと縮まって体温が上がった。
「好きなの?」
「え?」
「飴。」
「あ、うん。」
「あげる。」
味はしなかった。
代わりに、百合川の顔を覗く。

ほっぺたがぽこぽこと歪む。美しくて見る気の失せる容貌に、至妙な均衡が宿る。こんどは口をあけて、舌を遊ばせてみせた。
艶やかさを装わない無垢な表情がなおさら艶やかに思われた。飴玉を舐めるのに意図を疑うほど、美しい眺めでありながら、それを頭から否定する無垢は彼女の源から溢れてくるような清潔さであった。

「なんで、飴が好きなの」
「安くて、長くて、おいしいから。」
「スルメみたいな?」
「まあ、そう。」
「スルメを食べると緑茶を飲みたくなるよね。」
「うん、そうだね。」
「飴を舐めると水を飲みたくなるよね。」
「うん、そうだね。、、スルメ好きなんだ」
「いや。」

どこから来たのだろうと思わせる深く澄んだ声は遠くへ伸びて、やはりオレを見てはいないようだった。
雨は止むどころか勢いを増しオレに安堵を与えた。少し濡れた鋭い目がふいとこちらを覗いて胸をどよめかせた。
「雨、止まないね。」
「そうだね。」
「私、少し怖い。」
「怖いね。」
「本当に傘持ってないの?携帯も。今どき学校に携帯持ってこない希少種がいるんだね。」
「、、、うん。」
「ツッコんでよ。そっちもだろって。」
「、、、ごめん。」
百合川の言葉はどこか軽くて、宙に浮く深淵さだった。オレに向かいはするのに、オレでない、どこか遠くへ喋りかけているようだった。それの他にはただ、大して捻られていない冗談を言うばかりだった。

「ねえ、スルメ頂戴。」
「持ってないよ。」
「なぜ。」
「持ってるわけないだろ。」
「好きなのに。」
「好きじゃないよ。好きでも持ってこないさ。」
「なぜ。」
「持ってこないだろ」
「好きなのに。」

沈んだ空気を打ち消さんとするように、雨はより一層激しく降る。

「死にたいな。」

あまりの唐突さに彼女の目が少し見開いて、ピクリとした。飴玉がほっぺたに浮き出ていて滑稽だった。

「へえ、死にたいの。」
「いや。」
「あのこと、引きずってんの。」
「、、、いや。そう思ったけど、本当に死ぬと思うと怖い。それに調べたら、失敗すると後遺症がひどいみたい。だから、やめた。」
「ふうん、そうなんだ。」
「うん。」
「ね、死にたい?」
「え、、、。」
少し濡れた鋭い眼はより深く刺さって、こころまで届きそうだった。
「私はね、死んでほしい。」
「あ。」
雲の隙間からチラチラと太陽の光が見え始めた。雨が弱まってきたらしい。
「そろそろ帰ろうか。」
そう言って顎をこわばらせ、百合川が飴を砕き始めた。
「まだ雨が。」
「もう帰ろう。」
沈黙が雨音の支えを失くして沈みこんだ。
「あなた、私の顔ばかり見ているよね。」
「いや。」
「授業中も、いつも。」
脇から冷たい汗が噴き出した。
「私も見てたよ、あなたのこと。」
「え。」
「見られてたから、見てたの。でも顔じゃないよ、貴方を見てたの。なんて醜いんだろうと思って。」

噴き出した汗はいつ乾いたのか、案外と降っていた小雨に混ざり合って、見当がつかなかった。
なぜ迎えを呼ばなかったのかと、母の声が温かかった。

百合川は次の日、学校に来なかった。しばらくは百合川のいない席がそのままにされていたので、オレはいつものように百合川の席を眺めていた。しかしそれも数日のことで、席替えのタイミングで百合川の席はなくなった。


「あなたの小説、、、私がモデルのやつ。あれ、今度読ませてよ。」
「いや、、、。」
「官能小説なんでしょ?読みたいな。どんな風に書かれてるのか。」
「ごめん。本当に。」
「いいんだよ。でも、なんで小説なの?絵とか、写真とか、もっと普通のストーカーっぽいのにすればいいのに。」
「いやあ、、、。」
「私、そこだけが許せない。本って憎いの。」
「憎い?、、、まあ、嫌いな人は嫌いだよね、活字。」
「いえ、良く読むの、読むことだけが一日を救うの。」
「じゃあ、憎くないじゃないか。」
「あなた、私のこと好きでしょ。」
「え。」
少し濡れた目がスルりと、大きくぼやけて、柔らかに溶けていった。一度破裂したように大きく揺れ、また強く脈打ちだした心臓だったが、もう不快ではなかった。こころが平静を取り戻した。
「私、転校するの」
「え。」
「私ね、転校しても、たぶん、友達なんてできないの。、、、いじめられるかは、わからないけれど。」
雨の音も、心臓の鼓動も、もうすっかりと静まっていた。今ははっきりと百合川の姿が見え、はじめて、濡れた目の零れるのを、髪の隙間から見逃さなかった。




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