文化について
どうも西尾です。
今日は1月23日ですが大学生の方ですと、そろそろ後期の授業も終了し、試験や補講に向けて準備をしているところでしょうか。
試験や補講が終わると春休みで、長いようで短いですので、休みを利用して色々な経験ができる絶好のタイミングです。
文化について
大阪の文化が全国に広まる
最近読んだ本の中で、日本文学者でコロンビア大学名誉教授のドナルド・キーン先生が日本の文化について触れていた。
それによると、日本の文化を3つに分けており1つ目が平安朝の文化(宮廷文化)、2つ目が大阪の文化、3つ目は現代日本の文化。
この中から、大阪の文化について。
大阪の文化が日本全国に広まったのは江戸中期の元禄時代(1688〜1704年)で、元禄文化とも。
そして、平安朝の宮廷文化は文化の担い手が貴族であったのに対して、こちらは大阪を中心とした“商人”が担い手である。
この“商人”は、多くの場合が大きな町に住み、比較的贅沢な暮らしを営んできた。
では、この文化が日本全国へ広まった理由である。
“徳川により大阪城が築城されて、大阪の街には各地からの米蔵が建てられたり、各藩から人が来阪し、大阪の人と接触することで大阪の文化を覚えた、と思われる。”
なるほど。
当時から人の交流が文化の媒介となっていたのかと思うと、すごくロマンがあり面白い。
さらに、キーン先生は松尾芭蕉の『奥の細道』からもそれを伺うことができる、という。
なお芭蕉自身は三重出身のため、関西弁を理解できたと思われる。
『奥の細身地』では東北の方面へ行くも、言葉が通じない、発音の仕方が異なるなどの言葉の不自由については記載されていない、という。
現代でも東北方面ではお年寄りの方との話は難しい。
芭蕉の時代はもっと難しかったのではないか。
これに対しては国文学者で早稲田大学名誉教授の暉峻康隆(てるおかやすたか)先生による説が記載されていた。
暉峻康隆先生によると、大阪弁はどこでも通じる。
理由としては、大阪には各藩から人が来ていたことで、大阪弁を使うようになった。
その為、地方でも大阪弁を使う人がいた、ということである。
また、当時書かれた文楽の浄瑠璃は関西の言葉で書かれているものが多い。
なるほど、キーン先生も暉峻先生も同じ考えであった。
確かに、私自身も富山へ行った際に道を聞かれたことがあった。
その時は「すいません、地元の人とちゃうんで分からないです」と答えると、「この人関西の人や」と言われたことがある。
おそらく、その方は“ちゃうんで”から関西の人と判断したと思う。
“違う”を“ちゃう”と発音してしまう(“あれ違うやろう!”→“あれちゃうやろう!”)。
今ではテレビなどでも関西出身の芸能人やタレントの方が関西弁で話をしているので、珍しいという感じは薄れてるとは思う。
逆に、関西在住の者としては地方や外国に旅行に行った際に、駅や空港、ホテルのロビー、お土産屋でも何処でも、関西弁が聞こえてくると変に安心感を抱く。
それと同時にその喋り声などがあまりにも大きかったりすると、うわぁ!恥ずかしいからやめて!っと内心思ってしまうが口には出さない。
さらに、せっかく旅行先での異国情緒の気分を味わっているのに、聞こえて来る関西弁により、大阪の天神橋筋商店街にでも強制送還されたかのような気分になってしまう。
江戸の時代から時を経て、今では日本に多くの外国人観光客が訪れるようになった。
大阪文化が日本全国に広まったように、大阪文化を含む日本の文化が世界に広まるのは良いことだと思う。
本日は以上になります。
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