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『日本人と着物の間に出来てしまった距離を縮める』をコンセプトに次世代キモノブランドShi bun no San(シブンノサン)を手がける 野口染舗5代目“野口繁太郎”さん。

北海道から日本の精神・文化・カッコイイのオリジナルを世界に発信!!着物の可能性を余すことなく開拓し続ける株式会社野口染舗5代目 野口繁太郎さんにお話を伺いました。

野口繁太郎 Shigetaro Noguchiさん プロフィール
出身地:北海道札幌市
活動地域:札幌を拠点とし日本のみならず世界へと邁進中
経歴及び活動:
2006年 野口染舗に入社 
学生時代に海外で生活をしたことがきっかけで「着物」に対する考え方が変わる。
2008年 デニム素材を使用したキモノ創りを始める
2010年 メンズ用の「着流しデニム」発表
      ゴミ拾い侍一世一代時代組衣裳提供
2011年 レディース用の「ささらデニム」発表
現在は株式会社野口染舗 取締役室長を務め、カジュアルキモノのブランドShi bun no San のプロデュースを手掛けながら日本文化の継承として工場見学会、染物体験を実施。小学校の課外授業や外国人観光客からは人気のツアーとして注目を浴びる、常に着物の可能性を余すことなく開拓し続けている。
【座右の銘人生二度なし(森信三著書より)著書より)


人生の喜びと感動にお手伝い

記者:野口さんのお仕事について聞かせてください。

野口繁太郎さん:(以下、野口 敬称略)
自分の中の芯になっているのが『人生の喜びと感動にお手伝い』というもので、その事業領域として本来は節目節目のものである着物のお手伝いをさせていただくことです。
 今は生活様式が昔と全く違うので、着る物のはずが、見るものか着せてもらうものになっています。毎日着るのは難しいですが、着物をもっと身近なものとして、『日本人と着物の間にできてしまった距離を縮める』ことをコンセプトにした、カジュアルキモノのブランド Shi bun no San を通して、『今日着るものの選択肢のひとつに着物がある』を拡げていきたいと思っています。

〜世代を超えて受け継がれる「次に残して使えるようにする」という日本人の考え方〜

記者:その先の夢やビジョンなどはありますか?

野口:ニューヨークの人が日本人の着方を見て、"何それクールじゃん""カッコイイじゃん"って、勝手にマネされるようにしたいですね。今までは日本人がアメリカ人のマネしてきたじゃないですか?その逆バージョンができないかって思います。
 この仕事を始めた当時、エコやリユース、モッタイナイというのが流行っていましたが、実は日本人が昔からやっていたことに気づいて、凄くカッコイイ!!と思ったんです。
海外の人から言われるものでもなく、日本人なら何らかの事業にとりいれることもできるし、それをどう伝えるのかと考えたら世界が広がるじゃないですか。こちらから世界に発信できるし、子供にも大人にも伝えられる。
日本人が元々もっている考え方や想い、文化のかっこ良さ、すばらしさを知ってもらう活動をすることが自分の使命になっていきました。

記者:野口さんの言うカッコイイとはどのようなことですか?

着物が世代を超えて着られることが凄い!途絶えず、次に残して使えるようにするという考え方ですね。それを実感したのは、自分が成人式に祖父の紋付を来た時です。祖父はもう他界していて会ったことはなかったのですが、若い頃のおじいちゃんに僕が似ているんですよ。まさか、着物が残っているとも着れるとも思ってなかったので、その時の感覚はずっと残っています。それがあるから、受け継がれる思いという言葉がよく出るのかもしれません。たまたま僕はそういう家系でしたが、普通はあまりないじゃないですか。だからその感動を伝えたいというのがありますね。

〜課題からヒントを見つけ出しオリジナルを創造する〜

記者:その夢を実現する為に、具体的な目標や計画などありますか?

野口:何年までに何をするとかは、常に変化するものなので考えてはいないですが、一年通しての売上目標は絶対作って、自社ブランドをコレくらい売っていくというのは決めています。
 売れていた時期は、一兆八千億円という規模だった業界が、今はその6分の1を下回るほどです。その中で同世代の人にも興味を持ってもらって市場を拡大していく為にはどうすれば良いのかと考え、今ある技術を応用して何かできないかと思ったんです。

そこで、ジーンズの裾上げ工場からの加工依頼に対して染色技術を提供する中でビンテージの着れば着るほど味が出て価値が上がるのに対して、着物はそうはいかない。その課題をヒントに、実用性、デザインの差別性、強度をもたせる縫製を創り上げ、1、2年は創って着てを繰り返し、いろんな試行錯誤を経て今のShi bun no Sanのジーンズキモノが出来ました。

記者:常に、課題に対して、なんとかしたいという想いでチャレンジされてるんですね?

野口:そうですね。答えがない事の方が多いので、いっぱい失敗して、それがヒントになって、こうしたい!っという考えが生まれます。
 普段着ない人にも工夫して、もっと実用性に踏み込んで、用途としてのハードルを下げることで、可能性が広がっていきます。

〜出会うべき人には必ず出会える。しかも一瞬遅すぎず、一瞬早すぎない時に〜

記者:そういった目標にむけて、どんな活動指針をもって、どのような活動をされていますか?

野口:
僕の名刺にも書いてるんですが、『出会うべき人には必ず出会える。しかも一瞬遅すぎず、一瞬早すぎない時に。それを求めるレベルにいってなければその出会いも過ぎ去る。』だから考え方は常に見直したり、アップデートしたりしなければならないし、自分自身の考えをいかにもつかということですね。
 あとは出来る限りものづくりしてる職人さんと一緒にやっていきたいんです。もともとこういう仕事は一つの着物が出来上がるまでに色々な助けがいるので。協力してくれる人がいないと一人では何も出来ない。僕が前面にでるのは当たり前ですが、その裏にはその人達の想いがあるから出来るんです。

記者:常にその想いを無意識的にも感じていらっしゃるということですか?

野口:そうですね、それが自然とあるから絶対に結果を出すぞっ!っていうのがより強くなりますね。プレッシャーを楽しむといったら語弊がありますが、でもそれがないと、いいやで終わってしまうので。人の話を聞く時も、どこかで何か絡ませることはできないか考えていて、絶対ここで何か活かせるものを取るぞっていうのは常にありますね。今は仕事とプライベートの差がなくなってきて、例えば、キャンプの時に作務衣っていいじゃん!とか、そういう発想はワクワクしますね。

記者:その考え方は仕事する以前もあったのですか?

野口:子供の頃は自然の中でクワガタ捕ったりしてました。自然は教科書が無いですから、どこにいったらあるのかな?どうしたらいいのかな?っていつも考えてたんだと思います。あと、サッカ−ばかりしてましたし、ひとりじゃできない団体競技なのでチームプレーが当たり前。やってることは違うけど培って来たものが今に活かされて、面白いアイデアや新しい商品が生まれています。

記者:そんなサッカー少年が今のような夢を持つようになったキッカケは何だったのですか?

サッカーは目標が明確にあったのですが、その目標がなくなったんです。
プロがどれだけ厳しい世界なのかスポーツに関してはかなりはっきりと分かります。 でもサッカー以外したいことがなかったので何も思いつかず、とりあえず、お金のために飲食店のバイトを始めました。

最初観光客メインの、色んな国の年齢も様々なお客さんがくるお店で、大人と話す機会が沢山ありました。お客さんにどうしたら楽しんでもらえるかなって、どんどん考えてやる様になっていって、よくチップや手紙も貰ったり、会いにいったりしてました。
 人と話すこと、言葉を交わすことって、知らない世界をいっぱい知れるのですごく面白いことなんだって、だんだん思うようになったんです。ある時、お客さんに「野口くん、キミ、面白いから海外いってきなさい」って言われたんです。その時に僕が色々言い訳しているのに対して、そのお客さんは「もし、本当に行きたいなら説得するじゃん、ふつう。」って言ってくれたんです。
 サッカーもなんとなくダラダラやっていた自分が嫌でもあって悩んでいましたし、自分の中でポカンと穴が空いた時期に、人と話ことに何か面白さを感じていたのが、もっといろんな国の人と話してみたいっていう欲求が強くなってたんですね。

〜悔しさ、恥ずかしさ、情けなさを日本人としての誇りに大反転させる〜

それをキッカケにオーストラリアに半年いたのですが、その内の一ヶ月はタリーというド田舎で家事全般を手伝いながら生活していました。
日本人ですから日本の話題になり会話する中で、最初に「寿司」が出てきて、その次に「着物」が出てきたんです。こんなド田舎で日本語なのに知られてること、伝わることに凄くカルチャーショックを受けました。
 そしてその後、「着物ってみんな着てるんでしょ?」って聞かれたんですが、家業が着物にたずさわっているにもかかわらず、何も答えることができなかったんです。自分は着れないし、日本で着る人が少ないと言ってる自分も情けないし・・・。
今までの人生の中で、こんなに悔しくて、恥ずかしと感じたことは無かったですね。サッカーの試合で負けたレベルじゃない。その時の悔しさ、はずかしさ、情けなさは今でも忘れられないですね。僕のすべての原点がここにあるんです。

 そこからだんだん自分の家業を客観的にみれるようになって、今まで全く感じてなかった着物の魅力と、あんなド田舎でも通じることを誇りに思うことが出来たんです。

一旦、日本に戻って、さらにアメリカを横断し、各国から人が集まるニューヨークへいきました。
 そこでは、日本人の良さでもある、相手への気遣いや我慢することの美徳というものが全く通じない。自分で主張しないと興味が無いと思われるし、仲間にもなれない。自分の国のことを誇らしく話すヨーロッパ人に、「福沢諭吉って知ってる?って逆に言われて固まってしまったことがありました。

そんな経験を通して、自分が今出来ることがあるんじゃないかって思ったんです。日本から出て、海外の良さに引かれて移住する人もいますが、僕は逆に、“日本ってすげぇなっ”て、誇りに思えた事が大きかったですね。 
 その時は着物について、何も言えなかった自分が、着物を着ながら、海外の人に着方を教えている、なおかつ向こうで着たいって言う人がいることが今は凄く嬉しいです。
うちの商品を着た時にどんな感動が味わえるのか?着ることで、その人にハッピーになってもらいたいというのがあるから、お客さんという感じではなく接してくれるし、長く付き合える関係が出来ています。

記者:北海道人としての考えや想いなどはありますか?

野口:フロンティア精神があるところですね。北海道の優しさや良さはあるけど、明太子やにしん蕎麦のように、素材は北海道でも本州のブランドになっている。それは悔しいことです。逆に着物であればメインは本州ですから、北海道でアレンジをして独自性のあるものを創っているところがあるんだと思ってもらいたい。常にい良い意味での反骨精神はありますね。

記者:西洋にはない日本独自のもの。本州にはない北海道独自のもの、といったように常に新しい道を開拓されているんですね。
今日は貴重なお話をありがとうございました。

野口繁太郎さんの活動、連絡先についてはコチラ↓↓↓
●株式会社野口染舗ホームページ
●株式会社野口染舗facebookページ
●野口染舗の情報発信染太郎のBlog
●オリジナルブランド「Shi bun no San」Webサイト


【編集後記】
今回の記者を担当した清水・深瀬・中村です。
日本人と着物の間に出来た距離を縮めていく中でいつの間にか、世界と日本の距離も縮めることに貢献されてきたお話は、同じ日本人としてワクワクして本当に楽しかったです!
伝統を守り受け継いでいく京都の文化と、苦難の中でも新しい道を開拓し続けていく北海道のフロンティア精神。この2つの相反する性質を融合して今のお仕事に活かされてることが、野口さんご自身のミッションであり、生き方や哲学になっていると感じました。更なる今後のご活躍を楽しみにしています。

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この記事はリライズ・ニュースマガジン”美しい時代を創る人達”にも掲載されています。
https://note.mu/19960301/m/m891c62a08b36


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