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【ビザンツ帝国の歴史16】ビザンツ世界の継承者たち

こんにちは、ニコライです。今回は【ビザンツ帝国の歴史】の第16回目です!今回で最終回となります。

前回の記事では、オスマン帝国に圧迫される末期のビザンツ帝国と、1453年のコンスタンティノープル陥落についてまとめました。これ以降、ビザンツ帝国は歴史から姿を消し、永遠に復活することはありませんでした。しかし、国家は消滅しても、帝国が千年間育んできたものは遺産として次の時代に受け継がれていきました。今回は、ビザンツ帝国の後継者たちについて見ていきたいと思います。

1.継承国家オスマン帝国

ビザンツ帝国の直接的な継承国家となったのは、それを滅ぼしたオスマン帝国です。コンスタンティノープルを陥落させたメフメト2世は、ここを帝国の新しい首都と定めました。ビザンツ時代の建築物は破壊され、歴代オスマン君主の居城となるトプカプ宮殿、世界で一番美しいと評されるスルタン・アフメト・ジャミイ(通称ブルーモスク)など、壮麗なイスラム建築で飾られたイスラムの世界帝都「イスタンブル」として生まれ変わります。

ハギア・ソフィア(左)とブルーモスク(右)
ハギア・ソフィアは、イスタンブルに現代にまで残る数少ないビザンツ時代の建築物。トルコ人たちはこの建築物に特別な思い入れがあったようで、ハギア・ソフィアに似せたモスクをいくつも建築した。
By © José Luiz Bernardes Ribeiro, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=16793904

オスマン帝国は、かつての帝国の住民たちもそっくりそのまま臣下として引き継ぎました。歴代のスルタンたちは、臣下のキリスト教徒たちを強制的にイスラムに改宗させようとはしませんでした。キリスト教徒とユダヤ教徒は同じ一神教を奉じる「啓典の民」と位置づけられ、人頭税の支払いと、教会の新築禁止といった一定の制限を受け入れれば、生命や信仰の自由を保障されました。

ビザンツ時代から続く正教の教会組織は、オスマン時代においても重要な役割を果たすことになります。オスマン帝国は正教徒に自治を認め、彼らを統括する役割をコンスタンティノープル総主教をトップとする教会組織に担わせたのです。また、ギリシャ語、イタリア語、ラテン語を解するギリシャ人俗人エリートたちはファナリオティスと呼ばれ、オスマン帝国政府の中で重要な役割を果たすようになります。

イスタンブル・フェネル地区(20世紀初頭)
ギリシャ人俗人エリートたちはこの地区に定住したことから、フェネルの住人、「ファナリオティス」と呼ばれるようになる。彼らは御前会議主席通訳官、大提督主席通訳官、ヨーロッパ諸国に所在する大使館の通訳などの職を占め、対西欧外交交渉役を担った。

2.イタリア・ルネサンスとビザンツ知識人たち

ビザンツ帝国末期、イタリア諸都市との交流はますます深いものになっていました。ヴェネツィアをはじめ、当時のイタリア諸都市は地中海貿易において中心的な役割を担うようになっており、ビザンツ帝国もこの経済圏に取り込まれていったことが大きな理由です。しかし、イタリアとの交流は経済的なものにとどまりませんでした。

西欧からの軍事支援のために、皇帝マヌエル2世が西欧諸国を歴訪して以降、ビザンツ人の親ラテン派の中ではラテン文化やカトリック神学を積極的に学ぼうという姿勢が生まれました。中にはカトリックへと改宗したり、イタリアへと移住する者さえ現れました。一方、イタリア人の方もビザンツ帝国との接触が増加したことで、ギリシャ語の知識やギリシャ古典への関心が高まり、一種の「ギリシャ・ブーム」が巻き起こりました。

マヌエル・クリュソロラス(1350-1415)
ビザンツ皇帝マヌエル2世の特使として西方を巡歴して、最終的にカトリックへと改宗し、イタリアへ定住するようになる。彼はローマやフィレンツェで、イタリアの人文主義者たちにギリシャ語を教えて生活した。

1453年のコンスタンティノープル陥落以降、イタリアはビザンツ人たちの主要な亡命先となりました。この際、大量のギリシャ古典の写本も流入し、それまで西欧では決して手に入ることがなかったプラトンやアリストテレスなどの著作がもたらされました。これらの写本は、イタリアの人文主義者たちによって熱心に読まれ、書き写され、翻訳されていき、イタリア・ルネサンスの思想的基盤を形成することとなります。

マルチアーノ図書館
ヴェネツィア、サン・マルコ広場に位置するルネサンス期の図書館。この図書館の礎となったは、イタリアへ移住したビザンツ知識人ヨハネス・ベッサリオンが寄贈した数多くのギリシャ古典の写本であった。

3.第3のローマとなるモスクワ

1460年、最後の皇帝コンスタンティノス11世の弟トマス・パライオロゴスは領地であるモレアからローマへと亡命しました。トマスと彼の家族はカトリック教会の枢機卿となっていたヨハネス・ベッサリオンを頼り、ローマ教皇の庇護の下に生活を送ることになります。

ヨハネス・ベッサリオン(1403-1472)
ニカイア府主教で、東西教会合同派のリーダー。1438-39年に開催されたフェラーラ・フィレンツェ公会議に参加して以降、イタリアに在住するようになる。イタリアではギリシャ語古典の収集や翻訳作業に従事し、また亡命ビザンツ人たちの保護に努めた。

トマスが亡くなった後、彼の子供たちの面倒を見るようになったベッサリオンは、1472年、トマスの娘ゾエを遥か北方のモスクワの大公イヴァン3世に嫁がせました。ゾエはローマでカトリックに改宗しており、彼女とイヴァンを結婚させることでモスクワもカトリックに改宗させようと計画したのです。しかし、ゾエはモスクワに着いた途端に正教に復帰してしまい、ベッサリオンの狙いは大きく外れてしまいました。

ゾエ・パライオロギナ(?-1503)
ロシア語名:ソフィア・パレオローグ。画像は現代の復元像で、同時代の肖像画は現存していない。イヴァン3世はこの結婚によって対外的威信を高めるとともに、未だ不安定だった国内における権威を確立することになる。
By Sergey Nikitin - email from S.Nikitin to user:shakko, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=8448395

ビザンツ皇族との婚姻関係が成立したことで、モスクワ大公国ビザンツ帝国の後継者を自認するようになります。モスクワ大公はビザンツ皇帝を指す称号であった「ツァーリ」を名乗るようになり、国章としてビザンツ帝国の「双頭の鷲」を使用するようになりました。16世紀には、モスクワはローマ、コンスタンティノープルに次ぐ「第三のローマ」であるという主張が登場し、以後、これはモスクワ国家の公的なイデオロギーとなっていきます。

ロシア連邦の国章
ビザンツ帝国の国章である「双頭の鷲」は、モスクワ大公国、ロシア帝国、そして現代ロシアへと引き継がれている。

4.まとめ

以上のように、ビザンツ帝国は滅んでしまっても、その遺産は確かに次の時代へと受け継がれていったのでした。僕が興味深いと思うことは、それがイスラム、カトリック(西欧)、正教(ロシア、東欧)と別々の文化圏に継承されたことです。このことは、ビザンツ帝国が育んできたものがそれだけ普遍的な意味合いを持っていたことを表れているのだと思います。

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全16回にわたって、中世ローマ帝国、ビザンツ帝国の歴史をまとめてきました。日本の歴史教育において、ビザンツ帝国はほんのわずかにしか取り上げられません。ドイツやフランスやロシアは聞いたことがあっても、「ビザンツ」と聞いてピンとくる人の方が少ないのではないでしょうか。しかし、その千年の歴史は決して片隅に置かれるようなものではありませんでした。世界中の人々を魅了した大帝都、壮麗で壮大な国家儀礼、皇帝専制権力、そしてギリシャ文化……それは中世の遺物ではなく、次の時代、そして現代にもつながっているのです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。しばらくしたら、また次の連載をスタートしたいと思います。

参考

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