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【ビザンツ帝国の歴史15】千年帝国の滅亡

こんにちは、ニコライです。2023年最初の記事は【ビザンツ帝国の歴史】、第15回目です!

前回の記事では、国内的には内乱と国内分裂に苦しみ、対外的には小国へと落ちぶれてしまったパライオロゴス朝期のビザンツ帝国についてまとめました。コンスタンティノープル開都以来、1000年以上続いてきたビザンツ帝国でしたが、いよいよ最期の時が訪れます。帝国を滅ぼすことになるのは、強力な隣人セルビアでも、1204年に帝都を占領した西欧人でもなく、13世紀に登場したイスラムの新興国オスマン帝国です。今回は、ビザンツ帝国最後の50年の歴史を見ていきたいと思います。

1.最後のチャンス

14世紀末、ビザンツ帝国は窮地に立たされていました。1394年から、バルカン半島のキリスト教国への圧力を強めていたスルタン・バヤズィト1世によるコンスタンティノープル攻囲が敢行されていたからです。攻囲開始から2年後、ビザンツ帝国を救うためハンガリーを中心に対オスマン十字軍が結成されますが、ニコポリスの戦いでオスマン軍に大敗を喫しました。

バヤズィト1世(1360-1403)
オスマン朝第4代君主。1389年のコソヴォの戦いでバルカン半島を平定し、そのまま小アジアに転進し、トルコ系諸君侯国を併合した。その破竹の勢いから「稲妻王(ユルドゥム)」とあだ名される。

1402年、なんとか耐え抜いていたビザンツ帝国は、意外な援軍を得ることになります。それは、モンゴル帝国の分国のひとつである、チャガタイ・ハン国の将軍ティムールです。当時ハン国の実権を握り、イラン、インド、イラク、シリアを平定して大帝国を築いていたティムールは、小アジアへと侵攻し、アンカラの戦いでバヤズィト率いるオスマン軍を打ち破ったのです。

バヤズィトのもとを訪れたティムール(1878)
バヤズィトはティムールによって丁重な扱いを受けたとも、侮辱されたとも伝えられているが、いずれにしろ囚われの身のまま亡くなった。

バヤズィトがティムールの虜囚となったことで、オスマン帝国は解体してしまいました。バヤズィトが併合した諸君侯国が復活し、オスマン君主の玉座をめぐって4人の王子たちが争いあうようになったのです。ビザンツ皇帝マヌエル2世はこの後継者争いに介入し、オスマン人同士の内部争いをかきたてることで、自分たちに有利な状況を作ろうとしました。

マヌエルはオスマン王子たちのうち、ヨーロッパ側を拠点としていたスレイマン支援していました。ところが、1411年にスレイマンが暗殺されてしまい、彼と対立していた別の王子ムーサ―がビザンツに対し攻撃をしかけてきたのです。再び窮地に立たされたマヌエルは、小アジア側を拠点としていた王子メフメトに救援を求めます。

メフメト1世(?-1421)
バヤズィトの息子のひとり。兄弟間の争いに勝利し、オスマン帝国を復興する。

ビザンツ皇帝の要請に応え、メフメトはバルカン半島に進撃し、ムーサ―を破りました。メフメトは唯一のオスマン君主となり、ここにヨーロッパとアジアにまたがるオスマン帝国が復活しました。ビザンツ帝国にはせっかくの独立のチャンスであったにも関わらず、かえって自分たちの首を絞めることになってしまいました。

2.ふたつの党派対立

ビザンツ政府の中では、対オスマン政策をめぐってふたつの党派が対立するようになっていました。ひとつは、スルタンとの友好関係を維持し続けようとする「親オスマン派」、もうひとつは、スルタンと対決して従属国の地位から抜け出そうとする「反オスマン派」です。

後者の急先鋒となったのが、マヌエルの息子にして共同皇帝のヨハネス8世です。1421年、メフメト1世が亡くなると、ヨハネスは父の説得も聞かずに、対立スルタン・ムスタファを支援してオスマン帝国を内乱に陥れようとしました。しかし、この試みは失敗し、ムスタファは正統のムラト2世に敗れ、ビザンツ帝国はコンスタンティノープルとモレア専制公領を攻撃され、テッサロニキを陥落させられるという損害を被りました。

ヨハネス8世パライオロゴス(1392-1448)
西欧人による写実画が唯一残っているビザンツ皇帝。当時のイタリア人いわく「ギリシャ風に髪を切ったとびっきりの美男子」。病気がちで、痛風に苦しんでいた。

マヌエルの死後、単独皇帝となったヨハネスが次にとったのが、西欧からの軍事支援を引き出すことでした。そのためには、ローマ主導での教会合同を認めるしかないと考えたヨハネスは、ローマ教皇に公会議の開催を呼びかけます。1438-39年にかけて、イタリアのフェラーラ及びフィレンツェで開催された公会議には、皇帝ヨハネス、コンスタンティノープル総主教ヨセフス2世をはじめ700名からなる代表団が出席し、東西教会の合同が宣言されました。

教会合同の見返りとして、再び対オスマン十字軍が結成されます。ハンガリーとポーランドを中心とする2万5000人の陸軍が、1443年末からオスマン帝国に対する攻撃を開始し、翌年初頭には教皇庁・ヴェネツィア・ブルゴーニュによる海軍艦隊が陸軍に合流すべく東方へ向けて出航しました。しかし、十字軍艦隊はボスポラス海峡で両岸からの集中砲火に合い撃退され、陸軍もヴァルナの戦い惨敗を喫しました。頼みの十字軍も、ビザンツ帝国を救うことはできませんでした。

ヴァルナの戦い(ヤン・マテイコ,19世紀)
兵力差3対1という不利な状況において十字軍は勇敢に戦ったが、ポーランド王ヴラディスラワフ3世など多数の死者を出し、惨敗した。一方、オスマン軍も兵の約3分の1を失うなど、損害は決して小さくなかった。

3.若きスルタンの野望

1451年にスルタン・ムラト2世が亡くなったとき、跡を継いだのは若干19歳のメフメト2世でした。即位後まもなく、この若きスルタンはコンスタンティノープル攻撃を決意します。いつ、そして、なぜそのように思いたったのかはよくわかっていませんが、若く、人望もなく、弱い立場にある彼にとって、軍事的成功を上げることが威信を獲得する最良の道だと思われたのかもしれません。

メフメト2世(1432-1481)
メフメトは厳格に戒律を守るイスラムではなかった。例えば、イスラム教において偶像崇拝が禁止されているにも関わらず、ルネサンス画家を招いて自身の肖像画を描かせている。

1452年から、メフメトはコンスタンティノープル攻略の計画に没頭します。413年に建設されて以来、難攻不落を誇っていたテオドシウス城壁を破るため、巨大な大砲を発注しました。また、海上からの補給を断つために、ボスポラス海峡の最も狭い地点に新たな城塞を建造し、ここを通過するすべての船に統制しました。さらに、マルマラ海・黒海周辺のビザンツ都市を攻撃・占領して無力化し、攻囲が始まったときに救援を送らせないようにさせたのです。

ウルバン砲
ハンガリー人の技術者ウルバンによって発明された砲身8mの巨大大砲。移動させるには牛60頭が必要で、1発発射すると装填に時間がかかるため、1日7発しか発射できなかったという。ちなみに、ウルバンは最初コンスタンティノスに売り込みに行ったが、落ちぶれた帝国には購入するだけの財力は残っていなかった。

こうして1453年4月、総勢20万人という史上最大規模のトルコ軍が、コンスタンティノープルを包囲しました。その中には、約600キロの砲弾を放つ「バケモノ」と呼ばれる巨大大砲も加わっていました。メフメトは城内に使節を送り、財産と生命の保障と引き換えに降伏するよう促しますが、拒絶されたため、包囲戦を開始します。

コンスタンティノープルを包囲するオスマン軍

4.コンスタンティノープルの最期

メフメト2世率いるオスマン軍を迎え撃ったのは、1448年に亡くなったヨハネス8世の弟、コンスタンティノス11世です。しかし、ビザンツ側は総勢7000人とあまりにも劣勢でした。

コンスタンティノス11世パライオロゴス(1405-1453)
マヌエル2世の四男。ヨハネス8世と同じく対オスマン強硬派であり、モレア専制公時代には領土拡張のため、スルタンの臣従国や直轄領に攻撃を繰り返していた。
By George E. Koronaios - Own work, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=74198934

コンスタンティノスは自ら守備隊を率いて奮戦し、ジェノヴァ人義勇兵のジョヴァンニ・ジュスティニアーニは最激戦区である聖ロマノス門で防衛を続け、亡命オスマン王族であるオルハンもビザンツ側に立って戦いました。しかし、攻囲が2か月近く続くと、防衛側には疲労内輪もめ士気低下がみられるようになりました。

ビザンツ側の弱体化を見逃さなかったメフメトは、とどめの一撃を加える決断をし、5月29日、オスマン軍による総攻撃を開始しました。激戦の末、ジュスティニアーニが重傷を負い前線を離れると、防衛側は総崩れとなりました。さらに、度重なる大砲攻撃によって大城壁がついに破られ、オスマン軍は市内に雪崩れ込みました

ビザンツ人たちは帝国が助かる道は神の奇跡しかないと考え、祈り続けました。ある者は、危機に際して天使たちが降臨するという伝説を信じ、ハギア・ソフィア大聖堂に立てこもりました。しかし、奇跡は起こらず、コンスタンティノープルは3日間の略奪にさらされました。ビザンツ帝国の千年帝都コンスタンティノープルは、ここに陥落したのです。

コンスタンティノープルに入城するメフメト2世(バンジャマン・コンスタン,1876)
入城したメフメト2世は、自軍の行った破壊と略奪にショックを受け、涙したと伝えられている。彼は真っ先にハギア・ソフィア大聖堂に向かい、直ちにそこをモスクに改築する命令を出した。

5.ビザンツ人たちのその後

1460年にはペロポネソス半島のモレア専制公領が、その翌年には小アジアの黒海沿岸に位置していたトレビゾンド帝国が、オスマン帝国によって征服されました。オスマン帝国に服属していない旧ビザンツ領はすべて消滅し、ビザンツ帝国は永遠に歴史から消え去りました

コンスタンティノープル陥落時、運よくジェノヴァやヴェネツィアの船に乗れたビザンツ人たちは、西欧へと亡命していきました。またある者は、セルビアなどのキリスト教国へと陸路で逃れていきました。しかし、亡命先での生活が保障されていたわけではなく、例えば皇族のアンドレアス・パライオロゴスは、困窮からフランスやイングランドの国王を訪ねて金を無心していました。

トマス・パライオロゴス(1409-1465)
左下、青い服の人物。最後の皇帝コンスタンティノスの弟、アンドレアスの父。オスマンによるモレア征服に伴いローマへと亡命。トマスと彼の家族は教皇から年金を受けとって生活することとなったが、その額は年々減額されていき、アンドレアスの時代にはかなり困窮していた。
By Sailko - Own work, CC BY 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=73796190

コンスタンティノープルから逃げられなかった人々は、トルコ人に捕まり、奴隷として売り飛ばされていきました。奴隷となった人々の大半はその後家族に会うことも、故郷に戻ることも二度となかったでしょう。しかし、一部の人々は、裕福な家族や支援者によって買戻されることもありました。

コンスタンティノープル総主教ゲンナディオス2世(1400-1468)
右の人物。元総主教で、コンスタンティノープル陥落後は、トルコ人に捕まり奴隷として売られていった。しかし、メフメト2世によって買い戻され、オスマン時代の最初の総主教に就任する。

しかし、その後も変わらない生活を送ることになった人々もいました。メフメト2世は、コンスタンティノープルを帝国の新たな都として再興するため、キリスト教徒の捕虜たちを送り込んで住まわせたのです。特に豊かで影響力のあった人々を新体制に取り込むことが重要と考えられ、生命と財産を保障するという勅令によって、古いビザンツの家系の人々がかなり戻ることとなりました。

6.まとめ

こうして中世ローマ帝国、ビザンツ帝国はその歴史に幕を下ろしました。ビザンツ帝国の滅亡は、同年の英仏百年戦争終結と並んで、ヨーロッパ中世の終わりを告げる出来事とされています。

「なぜビザンツ帝国は滅びたのか」。この問いについては様々な答えがあるかと思いますが、ひとつだけあげるとすれば、外交力の限界があげられるでしょう。「戦わずして勝つ」という言葉は、これまで何度も触れてきましたが、自ら戦わず外交によって自分たちに有利な状況に作り上げるというのが、ビザンツ人の得意な戦略でした。帝国末期においても、自ら兵をあげるのではなく、西欧諸国を頼みにしてオスマン帝国に対抗しようとしたビザンツ人の努力が見て取れるかと思います。しかし、その外交に必要な富も威信も失っていたことが、末期の帝国の限界を決めたのではないでしょうか。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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