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【ビザンツ帝国の歴史14】最後の王朝・パライオロゴス朝

こんにちは、ニコライです。今回は【ビザンツ帝国の歴史】の第14回目です!

前回の記事では、第4回十字軍によって建国された十字軍諸国家と、ビザンツ亡命政権のひとつニカイア帝国による帝国再興事業についてまとめました。1282年、帝国の再建者ミカエル8世は大往生を遂げ、その息子アンドロニコス2世が跡を継ぎます。ここに、歴代最長の200年間続くことになる新王朝パライオロゴス朝が誕生しました。しかし、そこにはかつての大国の面影はどこにも見当たらず、帝国とは名ばかりの小国へと転落していました。今回はビザンツ最後の王朝の苦難の歴史を見ていきたいと思います。

1.絶え間ない内乱

パライオロゴス朝は、14世紀半ばの簒奪を除けば、帝位をパライオロゴス家の直系によって継承させ続けました。しかし、親・子・孫の間での政治的主導権をめぐる争いが絶えず、内乱が繰り返されました。

第2代アンドロニコス2世は、共同皇帝である孫のアンドロニコス3世との対立を深めていき、1320年から両者は内戦状態位に陥ります。アンドロニコス3世はヨハネス・カンタクゼノス貴族層の支援を取り付け、8年間に及ぶ戦いの末、祖父を廃位に追いやりました。

アンドロニコス3世は若くして亡くなり、皇太后マリアを中心とする摂政会議が政治を担うようになります。ところが、前皇帝の片腕であった前述のカンタクゼノスが反旗を翻し、1347年、先帝の息子ヨハネス5世の共同皇帝ヨハネス6世に即位し、実権を掌握します。ところが、その7年後、今度はカンタクゼノスとヨハネス5世との間で争いが生じ、カンタクゼノスは政権から追放させられました。単独皇帝となったヨハネス5世も、息子と孫による反乱に苦しめられることになります。

ヨハネス6世カンタクゼノス(1295-1383)
帝位を退いた後は、修道院へと引退して回想録を著した。この肖像画では、皇帝(左)と修道士(右)という2つの姿で描かれている。

凄惨な帝位争いと並行して、皇帝の権力弱体化の一途をたどりました。門閥貴族大修道院は、免税特権大土地所有所領経営によって多大な利益を享受し、国家による支配から離脱していきました。また、諸都市においても自由自治特権を求める声が高まっており、他国に占領された都市が帝国領に戻る際はこうした特権の確認が条件とされました。皇帝を中心とする中央集権制解体していったのです。

2.小国への転落

内政が安定しないと同時に、ビザンツ帝国は国際的地位低下させていきました。帝国を何よりも脅かしたのは、小アジアに現れた新興のオスマン帝国です。

小アジアを支配していたルーム・セルジューク朝は、1243年にモンゴル軍に敗れて急速に衰退し、複数の君侯国へと分裂していきました。こうした群雄割拠の中で登場したのが、オスマン1世率いる軍事集団です。彼らは第2代オルハンの時代に征服領域を拡大させていき、小アジア北西部を支配下に置きます。その過程で、ビザンツ帝国はプルサ、ニカイア、ニコメディアなどの主要都市を奪われ、小アジアにおける領土をほとんど失ってしまいます。

第2代君主オルハン(?-1362)
1326年、ビザンツ帝国の要衝ブルサを征服し、オスマン侯国最初の首都に定める。皇帝となる前からカンタクゼノスと友好関係を築き、彼の娘テオドラと結婚している。

1354年、オスマン・トルコ人たちはダーダネルス海峡のヨーロッパ側の港湾都市ガリポリを占領し、ここを拠点にバルカン半島へと進出していきます。1371年にマリツァ川の戦いセルビア軍が敗退したことをきっかけに、バルカンのキリスト教君主たちは次々にオスマン帝国のスルタンに服従していき、ビザンツ帝国も臣従を余儀なくされました。その後もオスマン帝国による領土の蚕食は続き、14世紀末までに、帝国はコンスタンティノープルを含むトラキア地方とペロポネソス半島をわずかに領有するのみにまで縮小していました。

15世紀初頭のバルカン半島南部
ビザンツ領はピンク色。コンスタンティノープルとテッサロニキ周辺、ペロポネソス半島の一部、エーゲ海の島々をわずかに領有するのみとなっている。
By Constantine Plakidas - Own work, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=67611502

領土の縮小とともに帝国の衰退を表しているのが、皇妃の出自の変化です。かつてコムネノス朝期の皇帝たちは、フランスやハンガリーなど名だたるヨーロッパの君主の娘・姉妹を皇妃として迎えていました。しかし、パライオロゴス朝期には、その出自は周辺のバルカン諸国の王女、さらには近隣の領主層の身内にまで低下しました。ビザンツ皇帝は、もはやスルタンに臣従するバルカンの地方領主に過ぎなくなっていたのです。

3.教会合同の試み

ビザンツ帝国を復活させたミカエル8世は、アンジュー伯シャルルによるコンスタンティノープル遠征を防ぐために、教皇にローマ教会主導での東西教会の再統合を約束しました。しかし、これは国内における激しい反発を引き起こしました。聖山アトス修道士たちは合同を「異端への屈服」だと非難し、皇帝の妹エウロギアや廷臣ゲオルギオス・メトキテスからも皇帝を批判する声があがりました。結局、ミカエルが教会合同を実現することはなく、次代アンドロニコス2世は教会合同の破棄を宣言しました。

これだけ国内分裂を引き起こしたのにも関わらず、その後も教会合同は帝国内で度々議論される問題となりました。オスマン帝国に脅かされていた皇帝政府は、西欧からの軍事支援を引き出すために、教会合同を利用しようとしたからです。1369年にはヨハネス5世が個人的改宗によってローマ教皇に対オスマン十字軍を約束させ、1438年には、フェラーラ・フィレンツェ公会議において、ヨハネス8世が軍事援助の見返りとして教会合同を行う協定に調印しました。

ヨハネス5世パライオロゴス(1332-1391)
1369年、ローマのサン・ピエトロ大聖堂でカトリックへと改宗し、ローマ教皇に対オスマン十字軍を約束させた。しかし、それが実現するのは彼の死後の1396年であり、コンスタンティノープルに到着することなく、オスマン軍に敗退した。

しかし、いずれの場合も同様に国内では大きな反対にあいました。1204年の第四回十字軍以来、ビザンツ人たちは西欧人に対し強い嫌悪感を抱くようになっており、ローマ主導の教会合同などとても受け付けることができなかったのです。また、12世紀以降影響力を強めていた修道士たちは、信仰に関わる教会合同については、より頑強に反対する姿勢を貫きました。脆弱化した皇帝政府には、これらの反対派をまとめるだけの力は残っていませんでした。

4.最後の輝き・パライオロゴス朝ルネサンス

国内的にも対外的にも絶望的な状況にあったパライオロゴス朝でしたが、唯一輝かしさを見せたのが文化面においてでした。

パライオロゴス朝期には、ギリシャ古典文化の研究が盛んに行われました。14世紀初頭に再建された首都のコーラ修道院には、帝国最大の図書館が併設され、古典収集と研究の中心としての役割を果たしました。アリストファネスやエウリピデスなど、この時代に編纂されたテキストは、現在の古典研究の基礎にもなっています。

テオドロス・メトキテス(1270-1332)
左の人物。弟子のニケフォロス・グレゴラスとともに、パライオロゴス朝期の代表的古典研究者であり、「歩く図書館」とあだ名された。

芸術面では大きな変化がありました。これまでの記事でもビザンツ時代のモザイク画をいくつか紹介してきましたが、遠近感がなく、マンガのように平板で、動きや表情に乏しい作品が多かったと思います。しかし、パライオロゴス朝期になると、立体的動きが感じられ、写実性のある作品が数多く作成されました。先述のコーラ修道院(現カーリエ博物館)に現存するこの時期のモザイク画やフレスコ画の中には、イタリア・ルネサンスの先駆者ジョットの作品と共通性のあるものもあり、イタリア・ルネサンスに並ぶものが生み出されていたのでした。

「復活」(1320年頃)
十字架上で息を引き取り、陰府に下ったイエスがアダム(左)とエヴァ(右)を天上へと力強く引き上げている場面を描いている。コーラ修道院の作品は、イタリア人が作成したと考えられていたが、現在ではビザンツ人の手によるものだということが判明している。

自伝を残したミカエル8世、メトキテスなどの文人を保護したアンドロニコス2世、修道院で回想録を著したカンタクゼノスなど、この時代には学問好きの文人皇帝が多く登場しました。とりわけ注目されるのは、14世紀末のマヌエル2世です。彼は圧迫を強めるオスマン帝国に対処する日々を送りながら、『あるペルシャ人との対話』、『弟テオドロスへの追悼文』、『皇帝教育論』などの多くの作品を書き残しました。ある歴史家は、「良き時代に生まれていたならば、さぞ名君とうたわれていたであろう」と彼を評しました。

マヌエル2世パライオロゴス(1350-1425)
オスマン帝国に対抗するため、自ら西欧諸国を回って救援を要請したが、具体的な支援は実現はしなかった。2006年、ローマ教皇ベネディクト16世がイスラム教を非難する文脈の中で、マヌエル2世の著作を引用したことで話題を呼んだ。

5.「ギリシャ人」意識の芽生え

パライオロゴス朝期において、ビザンツ人のアイデンティティには大きな変化が生じていました。「ビザンツ帝国」「ビザンツ人」というのは、後の時代に西欧人が付けた名称で、彼ら自身は「ローマ人」を名乗り、国号は「ローマ帝国」、君主は「ローマ皇帝」であるというのが建前でした。しかし、この時期になると、「ヘレネス(ギリシャ人)」という自称が使われ始めたのです。

「ヘレネス」とは多神教を信仰していた古代ギリシャ人、すなわち「異教徒」を指す言葉で、あまりいい意味では使われていませんでした。ところが、1204年のコンスタンティノープル陥落以降、「ラテン人(西欧人)」と自らを区別する言葉として「ヘレネス」が積極的に使われるようになったのです。先に見たギリシャ古典研究への傾注は、こうした民族意識の形成と双方向的に影響しあっていました。

この「ヘレネス」意識を強く表明したのが、哲学者ゲオルギオス・ゲミストスです。彼は古代ギリシャのプラトンに傾倒し、自ら「プレトン」と名乗り、「我々は人種・文化においてヘレネスである」として、自らを古代ギリシャ人の子孫であると明確に主張しました。プレトンは神をゼウスと呼ぶなど、キリスト教信仰と矛盾することも説くようになり、異端の疑いで追放の憂き眼にもあいますが、古典学の巨人としてフェラーラ・フィレンツェ公会議にも参加しています。

ゲオルギオス・ゲミストス・プレトン(1360?-1452)
弟子たちから「第2のプラトン」「プラトンを継ぐ者」と評された、パライオロゴス朝最大の古典学者。彼が活動していたペロポネソス半島のミストラは、モレアス専制公領の首府であり、コンスタンティノープルに次ぐ文化・芸術活動の中心地として栄えた。

6.まとめ

ビザンツ史の大家・井上浩一氏は、日本でパライオロゴス朝期の研究がほとんど行われていない理由のひとつとして、惨めな姿をさらけ出しているビザンツ帝国に触れたくないというからだということをあげています。それだけこの時期の帝国は悲惨な状況にあったと言えます。

しかし、確かに国家権力は弱体化していましたが、それに反比例するように様々な社会層での成長もみられました。先述べたように、門閥貴族や修道院は所領経営で財を成しており、皇帝よりも豊かな貴族が出現するほどでした。また、ビザンツの都市部は、当時地中海貿易を支配していたイタリアの商業活動圏に包摂されたため、ビザンツ人海運業者・商工業者は国際貿易で栄えていました。パライオロゴス朝期の文化・芸術活動の背景には、こうした豊かな社会層が推進力となっていったという事情もあるのです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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