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【ビザンツ帝国の歴史13】十字軍諸国家とビザンツ亡命政権

こんにちは、ニコライです。今回は【ビザンツ帝国の歴史】の第13回目です!

前回の記事では、マヌエル1世の死後に起きた帝国の急速な衰退と、ビザンツの宮廷陰謀によって到来した第4回十字軍によるコンスタンティノープル陥落についてまとめました。1204年の陥落以降、帝都ではラテン人が皇帝に即位し、帝国各地には十字軍諸侯による封建国家が建国されます。一方、都を失ったビザンツ人たちは、地方で独自の政権を樹立して帝国の再建を狙っていました。今回は、ビザンツ帝国を分割した十字軍諸国家と、ビザンツ人亡命政権について見ていきます。

1.十字軍諸侯による帝国分割

1204年5月、コンスタンティノープルに入城した十字軍はフランドル伯ボードゥアンを皇帝に選出し、ラテン帝国を樹立します。ラテン皇帝は臣従する十字軍諸侯に封土を分け与え、旧ビザンツ領を分割しました。帝国第2の都市テッサロニキとその周辺地域ではテッサロニキ王国が、アテネとテーベではアテネ公国が、ペロポネソス半島ではアカイア公国が、それぞれ建国されました。また、いくつかの港湾都市とクレタ島をはじめとするエーゲ海諸島はヴェネツィアの領土となりました。

1204年以降の旧ビザンツ領
紫色が十字軍諸侯の支配領域、緑色がヴェネツィア領。ラテン帝国の直轄領はトラキア地方など、旧帝国領の4分の1に過ぎなかった。
By LatinEmpire - own work; based on File:LatinEmpire.png by Varana, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1470982

直近のビザンツ皇帝が無能だったことあり、帝都の市民や地方の住民たちは新しいラテン人の支配者を黙認するか、歓迎しさえしました。しかし、彼らが以前の支配者と同じく強欲に税をとりたて、ビザンツ人よりもラテン人騎士たちを重用することがわかると、やがて失望が広まっていきました。また宗教面でも、コンスタンティノープル総主教にはヴェネツィア人のトマス・モロシニが据えられ、教会分裂一方的な解消を宣言させるなど、ビザンツ人の信仰を認めないことが明らかになっていきました。

十字軍諸国家は、誕生後まもなく苦境に立たされます。北方にブルガリアという強敵を抱えており、1205年にはラテン皇帝が、1207年にはテッサロニキ王が同国との戦いで戦死しました。また、帝国は慢性的な財政難を陥り、ヴェネツィアの経済支援の見返りに、帝都の美術品や聖遺物を引き渡すありさまでした。

ラテン皇帝ボードゥアン1世(1172-1205)
フランドル伯としてはボードゥアン9世。ブルガリアとの戦いに敗北後、連行されそのまま行方不明となる。その後即位したラテン皇帝も概して無能で短命であった。

2.ビザンツ亡命政権

ラテン人たちに対抗し、旧ビザンツ皇族たちも各地で亡命政権を樹立します。

いち早く建国されたのが、黒海南東部に位置するトレビゾンド帝国です。1204年の帝都陥落の直後、アンドロニコス1世コムネノスの2人の孫ダヴィドアレクシオスの兄弟は、ジョージア女王タマルの支援を受け、この地に国家を樹立します。彼らは西方への進出の意欲を示しましたが、後述するニカイア帝国の介入によって阻止されてしまいました。以降は周辺諸国と友好関係を維持しつつ、国際交易によってもたらされる富によって、独立路線を歩むこととなります。

トレビゾンドのハギア・ソフィア教会
13世紀半ばのマヌエル1世によって設立された。トレビゾンドは黒海貿易における中心都市となり、カフカスやロシア、ジェノヴァやヴェネツィアの商人が多数出入りしていた。
By İhsan Deniz Kılıçoğlu - Own work, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=16308886

一方、帝国西方のエピロス地方では、アンゲロス家のミカエル1世ドゥーカスによってアルタを首都とするエピロス専制公国が建国されます。ミカエルはラテン皇帝に臣従する素振りを見せつつ国家の基盤を築き、やがて東方へと領土を拡大に動き出しました。次代テオドロス1世テッサロニキ王国を滅ぼし、皇帝に戴冠してコンスタンティノープルへと迫りますが、1230年のクロコトニッツァの戦いでブルガリアに惨敗してしまいます。エピロスは小国へと転落してしまい、指導的な役割を果たせなくなっていきました。

エピロス専制公国領の変遷(1205-1230)
東方へと領土を拡大させていったエピロスは、ブルガリアへの敗北後、東西に分裂してしまう。その後ニカイア帝国に臣従するようになると皇帝称号を取り下げ、「専制公(デスポテス)」を称するようになる。
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3.ニカイア帝国

いくつかの亡命政権のうち最も有力だったのが、小アジアの建国されたニカイア帝国です。コンスタンティノープルからほど近いニカイアには、帝都陥落直後から亡命貴族たちが集まっており、その中から統治者となったのが、ラスカリス家のテオドロスです。彼は1206年に皇帝を名乗り、さらに亡命総主教を打ち立てて戴冠式を執り行うことで、自らの正統性を示しました。

テオドロス1世ラスカリス(1175-1221)
1204年のコンスタンティノープル陥落の際、逃亡したアレクシオス5世の跡を継いだコンスタンティノス・ラスカリスの弟。自らを旧約聖書のダヴィデになぞらえ、ニカイア皇帝の地位は神に由来すると宣言した。

ニカイア帝国は、第2代君主ヨハネス3世ヴァタツェスの時代に経済的発展を遂げました。ヨハネスは皇帝直轄領における農業、牧畜、養鶏を振興させ、原料や食糧を小アジアのトルコ人国家やヴェネツィアやジェノヴァなどのイタリア諸都市へと輸出することで、収益を上げることに成功します。こうして国家財政を強化した帝国は、1240年代にバルカン半島へと進出し、トラキアやマケドニア地方を征服し、テッサロニキを占領しました。

ニカイア帝国は経済や軍事だけでなく文化面でも成長を見せ、ニケフォロス・ブレミュデスのような優れた文人を輩出しました。彼を家庭教師とした第3代テオドロス2世もギリシャ古典に強い関心持った皇帝で、首都ニカイアを学識にゆえに最高の地位にある「すべての都市の女王」と褒めたたえました。

4.コンスタンティノープルの奪還

1258年、テオドロス2世が亡くなったとき、帝位を継いだヨハネス4世がまだ幼かったことから、先帝の腹心ゲオルギオス・ムザロン摂政を務めることになりました。ところがそのわずか10日後、亡き皇帝追悼のミサの席で、ムザロンは乱入してきた武装集団によって惨殺されてしまいます。

この事件の後に摂政となったは、名門貴族ミカエル・パライオロゴスです。ミカエルは有能であると同時に非常に狡猾な人物であり、先のムザロン殺害事件への関与も疑われていました。彼は摂政となっただけでは飽き足らず、翌年には、総主教を説得してミカエル8世としてヨハネス4世の共同皇帝に即位します。

ミカエル8世パライオロゴス(1225-1282)
身の危険を感じるとセルジューク朝のスルタンのもとへ亡命したり、摂政となった後は「ムザロンのようになりたくない」という理由で共同皇帝になったりと、ビザンツ史上「最も狡猾なギリシャ人」と評される。

ラテン帝国の滅亡はあっけないものでした。1261年7月、コンスタンティノープルの近くを通りかかったニカイア帝国軍の小隊は、町がほとんど無防備状態であることに気が付きました。ラテン帝国軍はヴェネツィア海軍とともに遠征に出払っていたのです。こうしてほとんど戦闘らしい戦闘もなく、ビザンツ人たちはコンスタンティノープルを奪還することができました。

同年の8月15日、聖母マリア被昇天の日にミカエルはコンスタンティノープへ入城し、翌月にはハギア・ソフィア大聖堂で改めて戴冠式をあげました。この際、彼は自分の息子を共同皇帝に据え、11歳になったヨハネス4世を目を潰したうえで宮殿から追い出してしまいました。こうした残虐な仕打ちにも関わらず、彼はその偉業から、帝都を築いた先帝になぞられ「新しいコンスタンティヌス」と称えられました。

デイシスのモザイク
ハギア・ソフィアの一角にあるモザイク画。ルネサンス期の油絵のような写実性からビザンツ美術の最高傑作とされる。正確な製作年代は不明だが、一説ではミカエル8世によるコンスタンティノープル奪還を祝して作成されたといわれている。

5.アンジュー伯の野望

これに対し、ラテン帝国復活を唱える者が現れます。フランス王の弟、アンジュー伯シャルルです。シチリア王に叙任されていたシャルルは、自らの主導で地中海帝国を建国するという壮大な野望を抱き、それを実行に移そうと対ビザンツ十字軍を計画したのです。

アンジュー伯シャルル(1226頃-1285)
シチリア王にしてアカイア公。最後のラテン皇帝ボードゥアン2世の息子に自身の娘を嫁がせ、帝国の相続権を手に入れていた。
By Sailko - Own work, CC BY 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=30537091

この動きを察知したミカエルは、周到な外交工作をめぐらせました。まずローマ教皇に接近して、カトリック主導での教会合同を約束します。これによりシャルルが十字軍を結成する大義名分を奪いました。さらに、海軍力を増強するためにジェノヴァと条約を結び、シャルルと同盟関係にあったヴェネツィアに対しては、通商特権を与える代わりに中立を守ることを約束させます。

1282年3月、シャルルはシチリア島に大艦隊を結集させ、コンスタンティノープルへの攻撃を準備しました。ところが、出航目前になってシチリア島住民たちによる暴動が勃発し、さらにスペインのアラゴン王国の海軍が現れ、シャルル軍は撃退されてしまいました。これもすべてミカエルの策略でした。彼はシチリアに工作員を潜入させ、島民の反フランス人感情をたきつけ、同時にアラゴン国王ペドロ3世に、金貨6万枚の支払いを引き換えにシャルル軍への攻撃を約束させていたのです。

ジュゼッペ・ヴェルディ『シチリアの晩鐘』(1855年)
シャルル軍に対するシチリア島民の暴動事件は、夕刻を告げる鐘の音とともに広まったことから、「シチリアの晩鐘事件」と呼ばれる。イタリアの作曲家ヴェルディによって、同事件を題材にしたオペラが作られている。

こうしてシャルルの夢は水泡に帰し、ビザンツ帝国は危機を乗り切ることに成功しました。

6.まとめ

1204年にいったん滅亡したビザンツ帝国は、60年の時を経て再び復活を遂げます。今回救国の英雄となったミカエル8世パライオロゴスは、狡猾な外交政策によって帝国を再建・維持することに成功しました。これは「戦わずして勝つ」「夷を以て夷を制す」というかつてマヌエル1世コムネノスが得意とした戦術を、より不利な状況下で巧みに行った結果であるといえます。

しかし、帝国復活の代償は非常に大きなものでした。アンジュー伯シャルルに対抗するために約束された東西教会の再統合は、帝国に深刻な内部分裂をもたらすことになります。また、軍事支援を受けるために結ばれた条約により、帝国はますますイタリア諸都市への経済的依存を深めていきました。復活した帝国の状況は、決して手放しに喜べるものではありませんでした。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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