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【ビザンツ帝国の歴史12】ビザンツ帝国の解体

こんにちは、ニコライです。今回は【ビザンツ帝国の歴史】の第12回目です!

前回の記事では、アレクシオス1世に始まるコムネノス朝の貴族連合体制と、「戦わずして勝つ」という世界戦略についてまとめました。11世紀末から12世紀にかけて東地中海地域の大国に返り咲いたビザンツ帝国でしたが、第3代マヌエル1世の死後、再び危機の時代に突入します。そして今度の危機においては、かつてのレオン3世アレクシオス1世のような救国の英雄は現れず、帝国は本当に滅亡してしまいます。今回は12世紀末に始まる危機の時代と、帝国を滅亡させた第4回十字軍について見ていきたいと思います。

1.アンドロニコス1世の恐怖政治

1180年9月、コムネノス朝の第3代皇帝マヌエル1世が亡くなりました。マヌエル帝の最大の失策は、成人した有能な後継者残すことができなかったことです。帝位を継いだ息子アレクシオス2世わずか11歳であり、皇后マリアによる摂政政治が行われましたが、こちらは帝都の市民に不人気でした。

こうした中、帝都へと進撃する反乱軍が現れます。その指導者は亡きマヌエル帝の従弟アンドロニコス・コムネノスです。アンドロニコスはマヌエル帝のライバルであり、帝位を求めて2度も皇帝暗殺を企てたために大宮殿の地下牢に監禁され、その後脱獄し亡命生活を送っていました。市民の支持を得たアンドロニコスは帝都へと入城し、アレクシオス2世の共同皇帝となります。しかし、彼はそれだけでは満足せず、その翌年には幼い皇帝とその母密かに亡き者にし、アンドロニコス1世として戴冠します。

アンドロニコス1世コムネノス(1117-1185)
アンドロニコス1世は帝位の正統性を獲得するため、アレクシオス2世の后、11歳のアニェスと結婚する。アニェスは結婚を嫌がり、アレクシオスの夢を見てはベッドで泣き伏していたという。

アンドロニコス1世の統治は、まさに恐怖政治というべきものでした。彼は属州総督への給料支払いの適正化、官職売買の禁止、減税などの改革を断行する一方、改革に反対する貴族・官僚を次々と粛清していったのです。コムネノス朝の貴族優遇政策にうんざりしていた市民たちも、こうした弾圧を歓迎しました。

2.帝国の解体

アンドロニコス1世の恐怖政治は、皇帝対属州貴族の対立を100年ぶりに再燃させました。帝の即位直後、小アジアの都市の大半はヴェタツェス家のもとに新政権を認めない状態となり、キプロス島ではイサキオス・コムネノスが皇帝を僭称しました。アンドロニコスは病的なまでに貴族たちへの猜疑心を肥大化させ、弾圧を恐れた帝都の貴族たちは次々に外国へ亡命していきました。

イサキオス・コムネノス(1155-1196)
元キリキア長官。1184年に小アジアからキプロス島へ渡り、皇帝を僭称する。最終的には帝都占領を目論んでいたが、1191年に第3回十字軍に参加していたイギリス王リチャード1世に征服される。これ以降、キプロス島は二度とビザンツ領となることはなかった。

しかし、彼の治世も長続きしませんでした。アンドロニコスは帝国経済を立て直すためにヴェネツィアと通商条約を結びました。しかし、当時の帝都市民の間では反ラテン感情の高まっており、ピサ人やジェノヴァ人などのイタリア勢力の完全排除を望んでいたため、この条約によって彼らの支持を急速に失うことになりました。

アンドロニコスに抵抗する市民たちは、謀反の疑いで逮捕されかけていた貴族イサキオス・アンゲロスを皇帝に担ぎ上げます。アンドロニコスはあっさりと帝位から引きずり降ろされ、市民たちによってなぶり殺しにされるという壮絶な最期を迎えました。

イサキオス2世アンゲロス(1156-1204)
「I(イ)」で始まる名前の人物に帝位を奪われるという占いを信じたアンドロニコス1世は、あてずっぽうでイサキオス・アンゲロスを逮捕しようとする。しかし、イサキオスは追手を振り切ってハギア・ソフィア大聖堂へ逃げ込み、そこで皇帝を宣言し、棚から牡丹餅式に帝位に就く。

新皇帝イサキオス2世が誕生しても、帝国の危機的状況に何の変りもありませんでした。イサキオス2世時代には帝国からの分離運動が活発化し、その10年の治世において少なくとも17回もの反乱が起こりました。各地でビザンツ貴族が皇帝を僭称する一方で、バルカンのスラヴ人たちも自立化の傾向を示し、1188年にはブルガリアが、それに続いてセルビア独立を果たします。帝国は今にも解体しようとしていました。

3.第4回十字軍

ここでいったんビザンツ帝国から離れて、西方へと目を向けたいと思います。1198年、聖地奪還に意欲を示す教皇インノケンティウス3世は十字軍勅書を発布し、各国へ十字軍を呼びかけます。参加を表明したのは、シャンパーニュ伯ティボー3世、その従兄弟ブロワ伯兼シャルトル伯ルイ1世、ティボーの義兄弟フランドル伯ボードゥアン9世とその弟アンリなどの面々でした。こうして第4回十字軍が結成され、海上運搬役となったヴェネツィアへと各自資金を携えて結集することとなりました。

インノケンティウス3世(1161-1216)
教皇権絶頂期の教皇。史上最年少で教皇に選出され、教皇領の支配を強化し、シチリア王国の摂政となり、ドイツ皇帝フィリップやイギリスの失地王ジョンを破門するなど、全西欧に教皇の首位権を示した。

しかし、統率者であったティボー3世が死去したこともあり、約束の日にヴェネツィアに集まったのは予定の3分の1となってしまいました。ヴェネツィアは契約金を全額を支払わせようと十字軍士たちを軟禁しますが、彼らが約束を果たせそうもないことがわかると、ハンガリー領ザラを攻撃することを提案します。最初は躊躇していた十字軍士たちもこれに同意し、ヴェネツィアとともにザラを攻め、降伏させました。

ザラ包囲戦
ヴェネツィアに対し反乱を起こし、ハンガリー王の庇護下に置かれていたザラ(現クロアチア・サダル)は、ヴェネツィア人にとってアドリア海の邪魔者であった。

しかし、本来の目的から反れて同じキリスト教徒を攻撃したため、十字軍士はインノケンティウス3世によって破門を宣告されてしまいます。彼らは教皇に破門撤回を求めるためにローマへ謝罪使を派遣し、その帰還を待ってザラで越冬することになりました。そこへ思わぬ来訪者がやってきたのです。

4.コンスタンティノープル陥落

ザラの十字軍のもとに訪れたのは、イサキオス2世の息子アレクシオス・アンゲロスです。イサキオス2世は、兄のアレクシオス3世によって帝位を奪われ、盲目刑に処されていました。父の失脚後、コンスタンティノープルを脱出していたアレクシオス皇子は、十字軍を頼って政権に復帰しようとしたのです。

アレクシオス4世アンゲロス(1182-1204)
首都脱出後、姉エイレネの嫁ぎ先であるドイツ王フィリップのもとに身を寄せていた。十字軍に対しては、遠征費の工面だけでなく、聖地奪還後の防衛軍の駐屯や、1054年に分裂した東西教会の再統合など現実的でない約束をしていた。

アレクシオスが協力の見返りとして遠征費の全額工面を約束したため、十字軍士たちは今度はコンスタンティノープルへと向かいました。思わぬ艦隊の登場にアレクシオス3世は逃亡し、イサキオス2世と息子アレクシオス4世はあっさり帝位を取り戻します。しかし、ビザンツ帝国の国庫にはとても遠征費を捻出するだけの資産は残っていませんでした。

1年待っても遠征費を支払わない皇帝政府に対し、十字軍士たちは不信感を募らせ、彼らへの圧力を強めていきます。そして、1204年1月、宮廷陰謀によってイサキオスとアレクシオスの親子が帝位を追われ、アレクシオス5世が即位すると、十字軍士たちの望みは断ち切られました。彼は十字軍へのすべての支払いを停止し、城外の十字軍への攻撃を指示したのです。

コンスタンティノープルを攻撃する第4回十字軍
ヴェネツィアの大型ガレー船はこれまでコンスタンティノープルを攻撃してきたイスラムの戦艦よりも背が高く、十字軍士たちは海の城壁を突破することができた。

十字軍は反撃に出ました。彼らはコンスタンティノープルの事情に詳しいヴェネツィア人の指導を受け、金角湾沿いの海の城壁に攻撃をしかけました。攻撃開始から3日後、十字軍は城壁を破り、市内へと侵入します。アレクシオス5世は逃亡し、帝都は5日間の略奪にさらされました。7世紀以降、イスラム勢力からの攻撃を退け続けてきたコンスタンティノープルは、同じキリスト教徒の攻撃に陥落したのです。

サン・マルコ大聖堂の青銅の馬
もともとコンスタンティノープルの競馬場に飾られていたが、第4回十字軍に戦利品としてヴェネツィアへ運ばれてきた。このように、コンスタンティノープル陥落の際、非常に多くの帝国の美術品が国外に持ち出されたり、破壊されて失われてしまった。

5.まとめ

マヌエル1世の死からコンスタンティノープル陥落まで、わずか四半世紀。なぜビザンツ帝国はこれほど急速に衰退してしまったのでしょうか。原因のひとつは、コムネノス朝の支配体制そのものに求められます。皇帝と血縁関係を結んだ貴族たちはその権威を分け与えられた「小皇帝」ともいうべき存在であり、時に君臣の別を忘れ、皇帝に暴言を吐いたり、粗暴なふるまいを見せさえしました。皇帝は彼らを率いるために強力なリーダーシップを発揮し続けなければならず、逆にそうしなければ、この体制は一瞬にして崩れ去る脆さを秘めていたのです。アンドロニコス1世による帝位簒奪とその後の恐怖政治によって、貴族たちはあっと言う前に皇帝政府から離れてしまいました。それまで抑えられていた貴族たちの自立化傾向は一気に加速し、帝国は解体へと向かっていったのです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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