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【ビザンツ帝国の歴史11】コムネノス朝の支配体制

こんにちは、ニコライです。いろいろと忙しくて更新が滞っていました。今回は【ビザンツ帝国の歴史】の第11回目です!

前回の記事では、異民族侵入から帝国を守るために戦い続けたアレクシオス1世についてまとめました。当初は帝位の簒奪者であったアレクシオスでしたが、37年間に渡る治世の中で皇帝としての正統性を獲得していき、その末期には彼の子息が帝位を継ぐことが当然視されるようになっていました。12世紀の間続くコムネノス朝の誕生です。アレクシオスはどのようにして危機的状況にあった帝国を再びまとめあげたのでしょうか。そして、コムネノス朝期のビザンツ帝国はどのように外国と渡り歩いたのでしょうか。今回は、コムネノス朝期の国内体制と対外政策について見ていきたいと思います。

1.家産国家体制への転換

これまでの皇帝政府は、軍事的・経済的に自立した軍事貴族たちを冷遇し、抑圧することで皇帝専制体制を維持しようとしました。しかし、アレクシオス1世は貴族たちを抑えつけるのではなく、彼らとの連携を強化することで政権を安定化させようとしました。

その中核となったのが、コムネノス家と並ぶ名門であるドゥーカス家との連合です。アレクシオスは帝位簒奪前から同家当主の孫娘エイレネ・ドゥーカイナと結婚しており、皇帝即位後も、兄イサキオスの息子たちや弟アドリアノスの配偶者もドゥーカス家から選んでいました。アレクシオスの帝位簒奪やその後の政権運営は、婚姻によって強化された両家の友好関係に支えられていたのです。

コンスタンティノス10世ドゥーカス(1006-1067)
ドゥーカス家はコンスタンティノス10世とミカエル7世という2人の皇帝を輩出した名門であるが、エイレネ・ドゥーカイナはその血は引いておらず、傍系にあたる。

アレクシオスは政権外部に強力な不満分子が生まれないよう、潜在的なライヴァルである有力貴族家門とも積極的に婚姻関係を築きました。このため、過去に皇帝を輩出したディオゲネス家ボタネイアテス家、小アジアの名門パライオロゴス家、さらにはかつてアレクシオス自身が反乱を鎮圧したブリュエンニオス家など、幅広い有力家門が政権内部に迎え入れられました。

こうしてアレクシオスは、貴族たちを家産組織の中にまとめあげることに成功します。コムネノス家をトップとするこの有力貴族家門の連合は、「コムネノス一門」ともいうべき支配者集団として、帝国の最上層を占めるようになっていきました。皇帝はこの一門を統率する家父長的リーダー、すなわち「貴族たちの代表」となったのです。

2.新しい爵位体系

この新たな支配体制の理念は、アレクシオスの行った爵位改革にも表れています。従来、爵位は当人の官職に応じて授与されるものでした。しかし、コムネノス朝の時代には、爵位は官職とは無関係に皇帝との血縁・縁戚関係を基準に与えられるようになります。

例えば、アレクシオスは自分の親類縁者や帝位簒奪の支援者たちには、「カイサル」(副帝)に続く高級爵位「セバストス」(尊厳者)を分配しました。そしてより自分に近い兄弟に対しては「プロトセバストス」(第1のセバストス)「セバストクラトール」といった新たな高級爵位をつくり、与えたのです。

爵位制度の変化
赤色がアレクシオス1世によって新設された爵位。アレクシオスは旧来の爵位をそのまま残すことで従来の爵位保持者からの反発を防ぎつつ、コムネノス一門の成員が高級爵位を独占できるようにした。

この爵位改革は、国家財政の健全化という側面も持ち合わせていました。爵位保有者には年金が支払われることになっていましたが、11世紀には安定した収入を得ようと土地所有者や商工業者などの富裕層が爵位を盛んに購入していました。そのため、政府が支払わなければならない年金額は国家収入の何倍にも膨らんでしまっていたのです。

アレクシオスは年金の支払いを停止する代わりに、高級爵位保持者には国有地を下賜し、その土地における行政権と徴税権を授与するという方策をとりました。この制度は、下賜される土地の呼び名から「プロノイア制」と呼ばれます。

3.コムネノス朝の世界戦略

コムネノス朝期の帝国は、かつてのユスティニアヌス帝やバシレイオス2世のように、強力な軍事力で近隣諸国を征服することはできなくなっていました。11世紀以降、帝国軍では外国人傭兵周辺諸国の同盟軍が大きな役割を占めるようになっており、こうした一時雇の軍隊は作戦終了とともに解散となるため、長期的な作戦を行うことが困難となっていたのです。

こうした状況下で皇帝たちがとった方策は、国内の貴族たちをまとめあげたのと同様に、国際政治の場においても人的ネットワークによって周辺諸国の君主をその影響下に取り込み、大国としての威信を誇示するというものでした。

その第一の手段は、やはり婚姻関係の構築です。皇帝やその息子たちは外国君主の娘を皇后に迎えました。アレクシオス1世の息子ヨハネス2世ハンガリー王女ピロシュカと、さらにその息子マヌエル1世は、最初はドイツ王の義理の姉妹ベルタ、彼女の死後はアンティオキア侯の娘マリアと結婚しています。さらに、かつては非常に慎重であったビザンツ皇女の外国への降嫁も積極的に推進され、各国の君主やその下の大諸侯クラスとの縁組交渉が重ねられました。

ハンガリー王・ベーラ3世(1148-1196)
国王に即位する以前、マヌエル帝の娘マリアと婚約していた。その後二人の婚約は解消され、マリアは北イタリアのモンフェラート候ルネと結婚する。

こうした動きと並行して行われたのが、外国君主との封建的な主従関係の構築です。皇帝は臣従する君主に対して保護と恩恵供与を、君主たちは皇帝に対し忠誠と軍事奉仕を約束しました。こうした最初の事例は、1107年にアレクシオス1世とアンティオキア侯ボエモンドの間で結ばれたディアボリス条約であり、これ以降、シリア・パレスティナの十字軍国家や、キリキアのアルメニア人君主、さらにセルジューク朝のスルタンなどとも主従関係が結ばれました。

4.戦わずして勝つ

圧倒的軍事力を保持していないコムネノス朝期の対外戦争は、極力自らが戦わず、外交力を駆使して他人を戦わせることで勝利を得るというものでした。特にこうした戦術にたけていたのが、アレクシオス1世の孫、第3代皇帝マヌエル1世です。

マヌエル1世コムネノス(1118-1180)
左の人物。右は二番目の皇后マリア。「ラテン人びいき」と呼ばれるほど西欧好きで、ビザンツ軍に西欧的な騎士戦術を取り入れたり、馬上槍試合を開催したりした。

例えば、ノルマン・シチリア王国との戦いであるイタリア戦役の際、マヌエル帝はビザンツ軍単独では戦わず、シチリア王の反抗するノルマン諸侯たちと同盟しました。帝は反乱諸侯に対し莫大な資金提供が行っており、その額は3万リブラ(黄金9600キロ相当)にもなると言われています。イタリア戦役は結局失敗に終わりますが、緒戦では大勝利をあげることができました。

他国を圧倒する手段は、何も戦争だけではありません。マヌエル帝は帝国の高度な文明圧倒的な財力を外国人に見せつけ、彼らを威圧しようとしました。外国の君主や使節たちは、壮麗なモザイク画で飾られた玉座の間で真珠や宝石を散りばめた装束の皇帝に迎えられ、パレード戦車競技などの催し物を観覧しました。さらに、金貨や銀貨、金銀でできた食器、最高級の亜麻布など、「ローマ人にはありふれていて、蛮族には珍しく手に入りにくい」贈物を大量に与えられたのです。

コンスタンティノープルに入城するノルウェー王シグルド
北方ヨーロッパの伝説や伝記を伝える「サガ」の中では、コンスタンティノープルを訪れたシグルド王が、その圧倒的富と都市の威容に目を奪われそうになるのを必死にこらえ、田舎者呼ばわりされないよう懸命に虚勢をはる姿が描かれている。

こうした歓待で得られた成果は、必ずしも実効性を伴わないことが多くありました。しかし、莫大な経費をつぎ込んだ政治ショーによって、ビザンツ帝国が東地中海地域の国際政治の中心にいるということを示し続けました。

5.世界戦略の破綻

こうした巧みな外交政策にも関わらず、マヌエル帝末期にはその世界戦略に綻びが生じました。きっかけとなったのは、2つの隣国との関係悪化です。

第一に、ヴェネツィアです。ヴェネツィア人は帝都に居留区を設置され、帝国各地の都市において無関税での取引を認められていました。しかし、1171年3月12日、マヌエルは帝国領内のヴェネツィア人一斉に全員逮捕し、その財産を没収する命令を下したのです。ヴェネツィアはこれに対し、100隻以上の艦隊を出撃させて反撃に出ますが、消耗戦に追い込まれて帝国に敗退します。

第二に、ルーム・セルジューク朝です。1176年、マヌエル帝はセルジューク朝征服のために遠征軍を率いて出征します。しかし、皇帝一門の貴顕で固められた軍隊は、小アジア中部のミュリオケファロンにおいてトルコ軍の待ち伏せにあい、大敗を喫してしまいました。この時の戦況はあまりにも悲惨で、「山間の谷には死体が重なり、血の川が音を立てて流れていた」と伝えられています。

ミュリオケファロンの戦い
トルコ軍は山々の尾根筋から狭い街道を行軍するビザンツ軍に矢の雨を降らせ、斜面を駆け下りて包囲し、これを殲滅した。この戦いでの敗北以降、陽気だったマヌエル帝は塞ぎこみがちになったという。

この二つの出来事がもたらしたのは、帝国の孤立化威信の失墜です。帝国に敗退したヴェネツィアは、ドイツ、シチリア王国、セルビアなどの諸勢力を糾合し、ビザンツ包囲網を形成するようになってしまい、セルジューク朝もドイツと手を結びます。そして、帝国が総力を結集した遠征軍がたった一度の戦いでトルコ軍に敗北した報せは瞬く間にヨーロッパ中に広まり、大国ビザンツのイメージは一瞬にして失われてしまったのです。

神聖ローマ皇帝・フリードリヒ1世バルバロッサ(1122-1190)
マヌエル帝の不倶戴天の敵。ビザンツ帝国に強い対抗意識をもっており、自らが正統なローマ皇帝、西欧の指導者であると自認し、西欧の反ビザンツ同盟の結成にも大きく貢献した。

6.まとめ

コムネノス朝期のビザンツ帝国の特徴は、家族・家柄・血縁を重視する社会が誕生したことにあります。外交王家との通婚が盛んに行われたのとは対照的に、国内の格下の社会層との結婚は忌み嫌われ、皇帝が介入して強制的に離婚させたり、名家との結婚を望む文官を罰したりしました。閉鎖的な特権集団を構成するようになった「コムネノス一門」は国家権力を独占するようになり、以前のような官僚や宦官の活動はあまり見られなくなっていきました。

この時期の西欧人たちは、ビザンツ帝国に対し複雑な感情を抱いていました。敵対者であるイスラム勢力と平気で同盟を組み、自らは積極的に戦わず傭兵部隊に戦わせ、金銭を積んで平和を購うビザンツ人を、西欧人は「卑怯者」「弱腰」と非難していました。しかし一方で、帝国のもつ高度な文明と重厚な歴史、絹織物や金銀財宝といった圧倒的財力に強い憧れを抱いていました。彼らの「ビザンツ・コンプレックス」ともいうべき感情はやがて13世紀初頭に爆発し、帝国に大きな悲劇をもたらすことになります。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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