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ロシア・ウクライナ・ベラルーシの宗教史5 モスクワ=第三ローマ論

1.はじめに

1240年からモンゴルの支配下におかれたルーシの地では、モンゴルの宗教的寛容政策もあり、教会が大いに発達しました。しかし、ロシアの教会は相変わらずコンスタンティノープルの支配下にありました。キエフ府主教の任命権はコンスタンティノープル総主教が握っており、任命されるほとんどはギリシャ人聖職者でした。しかし、この関係はビザンツ帝国が衰退・滅亡する15世紀から変化していきます。今回は、ロシアがコンスタンティノープルから独立し、ビザンツの継承者として独自の教会を築いていく過程を見ていきたいと思います。

2.斜陽のビザンツ帝国

1204年の第四回十字軍によってコンスタンティノープルが陥落し、傀儡政権であるラテン帝国が建国されます。しかし、各地で樹立したビザンツ人亡命政権による抵抗は続き、1261年、亡命政権のひとつ、ニカイア帝国のミカエル8世パライオロゴスによってコンスタンティノープルが奪還され、ビザンツ帝国は復活します。

ミカエル8世パライオロゴス(1225-1282年)
「最も狡猾なギリシャ人」と呼ばれる策略家

しかし、再建されたビザンツ帝国は、かつての大帝国の面影をとどめない小国でした。経済的には、当時地中海世界で躍進していたイタリア諸都市に従属しており、第四回十字軍の黒幕であるヴェネツィアにさえ、通商上の特権を与えざるを得ませんでした。

さらに、政治的にビザンツ帝国を脅かすようになるのが、東方からやってきた新興勢力オスマン帝国でした。1299年、初代スルタン・オスマンがセルジューク朝より独立を宣言して成立したオスマン帝国は、セルジューク朝とビザンツ帝国から領土を奪い、発展していきました。ビザンツ帝国は、ニカイアやニコメディアなど小アジアの領土だけでなく、バルカン半島側の領土すら奪われ、やがてオスマン帝国の属国と化していきました。

14世紀初頭のバルカン半島南部の状況
ビザンツ帝国領はピンク色。コンスタンティノープルとテッサロニキ周辺、ペロポネソス半島の一部、エーゲ海の島々をわずかに領有するのみとなっている。
By Constantine Plakidas - Own work, CC BY-SA 4.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=67611502

3.フェラーラ・フィレンツェ公会議とロシア教会の独立

衰退の一途をたどるビザンツ帝国は、同じキリスト教徒である西ヨーロッパ諸国に援助を求めました。しかし、ローマ・カトリック教会とギリシャ正教会は、1054年にお互いに破門状を叩きつけあって以降、分裂状態にあり、援助の代償として、まず教会合同が必要でした。

1437年~1439年、イタリアのフェラーラ及びフィレンツェにおいて、東西教会合同を最大のテーマとする公会議が開催されました。ビザンツ帝国からは皇帝ヨハネス8世とコンスタンティノープル総主教ヨセフス2世をはじめ、総勢700名が参加しました。この公会議において、三位一体論やフィリオクェ問題などの神学上の問題では妥協が図られ、さらに、ギリシャ正教会側がローマ教皇の首位性を承認するなど、正教会側がカトリックに譲歩することで、教会合同の協定が調印されました。

イタリアに向かうヨハネス8世
ベノッツォ・ゴッツォリ「東方三博士の旅」より

フェラーラ・フィレンツェ公会議での協定内容は、公会議に出席していたギリシャ人のモスクワ府主教イシドール(ロシア語名:イシドロス)によって、1441年にモスクワに伝えられました。しかし、その合意内容は、ロシア人たちには受け入れられませんでした。モスクワ大公ヴァシリー2世は、教会合同は真の信仰からの離反であるとして、イシドールを直ちに逮捕し、その後ロシアから追放処分にしました。

ヴァシリー2世は、府主教座が空位となったことを好機と捉え、1448年にロシア人主教会議を招集し、ロシア正教会の初代府主教として、ロシア人の主教イオナを選任しました。これによって、ロシアの教会は事実上コンスタンティノープルから独立した教会となり、この時点をもってロシア正教会が成立したと言えます。

イオナの叙聖

4.ビザンツ帝国を継承するモスクワ

期待されていた西ヨーロッパからの軍事援助は結局来ずに、1453年、オスマン帝国によってコンスタンティノープルは陥落し、ビザンツ帝国は滅亡しました。ロシア人たちは、ビザンツ帝国の滅亡を、教会合同を神が祝福しなかった証背教者ギリシャ人に対する神罰であるととらえ、自らをビザンツ帝国を継承した、正教会の守護者であると自認するようになります。

1462年に大公となったイヴァン3世は、1472年、ビザンツ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世の姪ゾエ・パレオロギナ(ロシア語名:ソフィア)を后として迎えます。モスクワ大公家とビザンツ皇族との婚姻関係が実現したことで、ビザンツ皇帝の権力がモスクワに移行したという自己認識が深まりました。

イヴァン3世(1440-1505年)
周辺諸公国を併合し、国内統一事業を推進した
なお、ゾエの肖像画は現存していない

さらに、ロストフ大主教ヴァシアンの強力な支持のもと、イヴァン3世は、ビザンツ皇帝を指す称号であった「ツァーリ」を名乗るようになり、国章としてビザンツ帝国の「双頭の鷲」を使用するようになりました。

イヴァン3世時代の国章
双頭の鷲は、ロシア帝国、そして現代ロシアにも引き継がれている

イヴァン3世の子ヴァシリー3世の時代になると、プスコフのスパス=エレアザロフ修道院の修道士フィロフェイによって、「モスクワ=第三ローマ論」という理念が唱えられました。フィロフェイはヴァシリー3世に宛てた書簡の中で、「二つのローマ(ローマとコンスタンティノープル)は没落し、モスクワは第三のローマであり、第四は存在しない」と主張し、モスクワ大公のみが「地上の全キリスト教徒のツァーリ」であると、その責務の重さを説きました。フィロフェイのこの主張は、まさにビザンツ帝国の継承者を自認するロシアの自負を表現するものでした。

5.モスクワ総主教座の確立

ビザンツ帝国の継承者としてふるまうようになったロシア人たちの次なる願望は、完全な自治独立権を有する総主教座を確立することでした。ロシア人たちは、繰り返しロシア正教会総主教制の確立を請願しました。しかし、ギリシャ人たちは、総主教座はコンスタンティノープル、アレクサンドリア、アンティオキア、エルサレムの4都市で不変であり、いかなる新しい総主教座も付け加えられないと主張しました。

ロシア人たちに好機が訪れたのは、1588年、コンスタンティノープル総主教エレミアス2世がモスクワを訪問した時でした。史上初めてロシアを訪れた総主教に対し「ロシア正教会の総主教」に就任してもらうよう申し出ました。異教徒のトルコ人の支配下で肩身の狭い思いをしていたエレミアス2世は、モスクワでは温かく歓迎してもらえたことから、この提案に同意します。

エレミアス2世(1536-1595年)

しかし、ロシアが「自前の総主教」を戴くことが同意されると、ロシア人たちは態度を変えました。彼らはモスクワ府主教イオフを罷免することはできないので、エレミアス2世にはウラジーミル府主教になってもらうと言い始めたのです。一方、エレミアス2世の方も、ロシアでの滞在が長引くにつれ、その厳しい気候や、言葉が通じないこと、まずい食事、延々と続く長い祈祷式など、ロシアでの生活に苦痛を感じるようになってしまいます。

結局、エレミアス2世はロシアの総主教にはロシア人が相応しいと思うようになり、1589年に府主教イオフを「モスクワ及び全ルーシの総主教」に叙聖します。このときにエレミアス2世が署名した文書の内容は、実はフィロフェイの書簡の焼き直しであり、モスクワが第三ローマであるということを、正教世界の最高権威に認めさせるものでした。

初代モスクワ総主教イオフ(1525-1607年)

その後、エレミアス2世はコンスタンティノープルに戻り、アレクサンドリア、アンティオキア、エルサレムの3人の総主教を、4年間に渡って説得しました。1593年、4人の総主教はコンスタンティノープルに集まり、モスクワに第5番目の総主教座を与えることを承認しました。

6.まとめ

モスクワの総主教座への昇格は、直ちに大きな変革をもたらしたわけではありませんでした。モスクワ総主教には、コンスタンティノープル総主教と同等の権限と権威が与えられたわけではなく、当時はまだ普通の管区主教の一人に過ぎませんでした。しかし、ビザンツ帝国の継承者としてツァーリを自称し、完全な自治独立権を有する総主教を確立したことは、モスクワが第三のローマであるという理念を現実のものにしました。このことは、ビザンツ滅亡後に唯一の正教国となったロシアが、全正教世界の中心としてふるまうようになる第一歩であったといえます。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考

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