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ロシア・ウクライナ・ベラルーシの宗教史6 ニコンの改革と古儀式派の成立

1.はじめに

16世紀の西ヨーロッパでは、ドイツのマルティン・ルターらによって始められた「宗教改革」によって、プロテスタントという新たな教派が誕生しました。正教国ロシアは、こうした動きには無縁でしたが、17世紀になると独自の教会改革が行われました。そして、この改革は、現在も続く教会分裂を引き起こすことになりました。今回は、17世紀に起きたロシア正教会の改革と教会分裂の過程を見ていきます。

2.「動乱」とロマノフ朝の成立

1598年、イヴァン雷帝の後を継いだフョードル1世が亡くなりました。フョードルには跡継ぎがいなかったため、700年間続いたリューリク朝は断絶してしまいます。

フョードルが亡くなってからまもなく、隣国ポーランドでフョードルの異母弟ドミトリーを名乗る人物が現れました。この「偽ドミトリー」を利用して、ポーランドスウェーデンがロシアの王位継承に軍事介入し、ロシアは「動乱(スムータ)」の時代に突入します。

セルゲイ・イヴァノフ「動乱時代」19世紀末

1612年、国民義勇軍によってポーランド軍から解放されたモスクワで、「全国議会(ゼムスキー・ソボール)」が招集され、空位となっていたツァーリの選出が行われました。この時に選出されたのが、イヴァン4世の最初の后アナスタシアの出身であるロマノフ家の、若き後継者ミハイルでした。こうして、以後300年間続くロマノフ朝が幕を開けました。

初期のロマノフ朝は困難の連続でした。動乱の余波により外国、特にポーランドとの緊張関係が続き、さらに人口減少や耕地の荒廃により、経済には破局し、治安は悪化していました。

ロマノフ朝の統治が安定するのは、第2代アレクセイの時代です。1645年にツァーリの位を世襲したアレクセイは、不敬罪を制定するなどツァーリ権力の強化を図り、官僚機構を整備し、中央集権化を進めました。さらに、軍制改革を行い、西洋式の常備軍を創設することで、ロシアの軍事大国化を図りました。

ツァーリ・アレクセイ(1629-1676)
「ツァーリは欲することを自分の意志のままにできる」と言われたように権力強化を図ったが、反発する都市民の暴動や「ラージンの乱」のような農民反乱を招いた

3.ロシアとギリシャの教会の「乖離」

アレクセイは、大変信仰に篤いツァーリでした。厳格に精進日を守り、修道院への巡礼を欠かさず、日々の食事は黒パン1枚、塩漬けのキノコかキュウリ、低アルコールのビール一杯と、非常に質素なものでした。また、自ら宗教・教会問題を検討できるほど、神学に精通していました。

そんなアレクセイが気にかけていたことが、教会儀式と典礼書の問題でした。ロシアは、10世紀末に正教会の信仰を受け入れましたが、それから400年以上の間に、その儀式や典礼書は「本家」であるギリシャの教会と大きくかけ離れてしまっていました。例えば、ロシアの教会では、十字を切る際の指は2本、「アリルイヤ(ハレルヤ)」の詠唱は2回、祈拝する際は投身で行う、とされていましたが、ギリシャでは指は3本、ハレルヤは3回、祈拝は腰まで、とされていました。

イヴァン・ベルスキー「奉神礼中の主教」1770年
ロシアの奉神礼は、とてつもなく長い間、分刻みの進行で執り行われる
1654年にモスクワに滞在したアラブ人の長輔祭パウロスは、数時間にわたる奉神礼に対し、その勤行の厳しさは、砂漠の修道士をも凌駕していると呆れている

コンスタンティノープルがイスラム教国のオスマン帝国に征服され、ブルガリア、セルビア、ルーマニアなどもその支配下に置かれていた当時、ロシアは正教を信仰する唯一の独立国でした。各地の正教徒たちは「第三のローマ」であるロシアに庇護を求めるようになり、ロシアによってビザンツ帝国の復興を果たそうと考える者さえいました。しかし、ロシアが正教世界の指導者として振舞うためには、なんとしてもこの「乖離」を解消する必要がありました。

4.ニコン総主教の改革と反発

1652年、アレクセイは、親交の深かったノヴゴロド府主教ニコンをモスクワ総主教に任命しました。ニコンは、以前からギリシャの原本を基礎にした典礼書改訂を主張しており、就任後、さっそく教会改革に乗り出します。ニコンは十字の切り方、ハレルヤの詠唱回数、祈拝の仕方、教会の周りを巡る行列の方向などについて、それまでロシアで行われていた儀式の方法を捨てて、すべてギリシャ風に改めるように命じました。

総主教ニコン(1605-1681)
貧しい農民の子であった彼は、3人の子供を全て失うという不幸に遭い、妻とともに修道院に入った。その修道院でアレクセイの目に留まり、大出世をすることとなる

しかし、この改革は強い反発を引き起こしました。ロシアの聖職者たちには、ロシアの儀式や慣習こそ「聖使徒伝来のもの」であり、変更を加えたロシア以外の正教徒の方が過ちを犯しているする立場もあったからです。全員が、ニコンのようにロシアがギリシャを手本に改めるべきと考えていたわけではなかったのです。古い儀式を守る彼らは、後に「古儀式派」と呼ばれるようになります。

ニコンは、改革に反対する人々を容赦なく弾圧し、拷問のうえ、聖職を剥奪し、流刑に処しました。しかし、長司祭アヴァクーム、ロマノフ市の司祭ラザリ、モスクワのブラゴシチェンスキー聖堂の輔祭フェオドル、ムロームの長司祭ロンギン、大貴族モロゾヴァ夫人など、弾圧に屈せず、抵抗する者も大勢いました。

ヴァシリー・スリコフ「貴婦人モロゾヴァ」1887年
改革に反対し、流刑の処される。高くあげられた右手は、2本の指で十字を切ることを象徴している

5.1666年の公会議

独裁的に権力を振るっていたニコンは、総主教の地位はツァーリより上であると主張するようになり、ツァーリ・アレクセイと対立し、修道院に引きこもってしまいます。ニコンは、そのうちアレクセイがなだめにくるだろうと高を括っていましたが、ツァーリの気持ちはすっかり冷めていました。

1666年、アンティオキアとアレクサンドリアの総主教主催のもと、モスクワにて公会議が開催されました。この公会議において、ニコン総主教は廃位されることになりました。この後、ニコンは聖職を剥奪のうえ、総主教座の違法な放棄とツァーリへの不敬罪で収監されました。しかし、ニコンが行った改革自体は承認され、この改革を受け入れた人々が正統、拒絶した人々すなわち古儀式派は異端と宣告されました。

ピョートル・ミャソエドフ「火刑に処されるアヴァクーム」1897年
アヴァクームはニコンの仲間であったが、彼の改革に強く反対するようになり、最後は1682年に火刑に処された

古儀式派の信徒たちの中には、迫害を逃れ、辺境の地で共同生活を送るようになる人々もいました。彼らは、政府の軍隊が近づくと、彼らは木造の小屋に立て籠って火を放ち、「火の洗礼」、すなわち集団自殺という手段に訴えました。17世紀末までに、約2万人がこうした過激な行動に出たと言われています。

改革に対する特に強い抗議は、白海の孤島のソロヴェツキー修道院で起きました。ソロフキ島では、荒野修道院運動のただ中にあった1429年に、修道士サヴァーチイによって最初の僧庵が設けられ、以後、大小の修道院が集まる修道院群へと発展していました。

ソロヴェツキー修道院
ソロフキ島は古くから政治犯の流刑地でもあり、儀式改革への抵抗は反ツァーリ、反政府的様相も呈するようになった。
By Linazet - Own work, CC BY-SA 3.0,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=28486566

ソロフキ島の修道士たちは、改訂された典礼書をもって現れた正教会の使者の受け入れを拒否し、修道院で働いていた俗人たちも、これを支持しました。これに対し、アレクセイは銃士隊を派遣しますが、孤島という立地条件と堅牢な城壁のために、包囲するのが精いっぱいでした。ソロヴェツキー修道院の抵抗は8年間続きましたが、包囲が長期化する中で、修道院内部でも分裂が生じるようになりました。そして、1676年、ついに政府軍による総攻撃が仕掛けられました。この戦いで、修道院に残っていた者のうち、62人が逮捕、200名以上が戦死しました。

6.まとめ

ニコンの改革は、16世紀に西ヨーロッパで起きた宗教改革とは異なるものでした。宗教改革は、福音主義の立場から根本的に教義を改革するものであったのに対し、ニコンの改革はあくまでも教会儀式の改革であったからです。

しかし、それによって生じた教会分裂の影響は、非常に大きいものでした。まず、古儀式派を異端と認定したことは、最も敬虔な人々を教会から引きはがし、その精神的権威を損ねました。これにより、元から国家や社会に対する影響力がそこまで強くなかったロシア正教会は、ますますその影響力を弱めることとなりました。

また、宗教改革におけるカトリックとプロテスタントとの対立により、西ヨーロッパでは、信教の自由という考え方が生まれたのに対し、古儀式派を激しく弾圧したロシアでは、政府による思想弾圧という反近代的性格を強めることになりました。

ロシア正教会と古儀式派の分裂は、現代になっても解消しておらず、今日でもロシアにおいて100万人以上の信徒を擁しています。彼らは容司祭派や無司祭派などの様々な宗派に分裂しながら、今日に至っています。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考

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