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夢は諦めながら捨てない 自分に合う器を求めて

夢と現実は、対立するものとして語られることが多い。
また、好きなことをして生きたほうが楽しい!という考え方と、得意なことをしたほうが楽だ、という考え方がある。
わたしはいままで、日常のささいな幸せに目を向けるより、理想や美を目指して生きるほうが尊く、好きなことを仕事にして生きる生き方のほうがかっこいいし、いちばん意義がある仕事をするべきだ、と、そう思ってきた。
(まるで仕事がすべてのわたしの価値を決めるかのように)
〇〇すべき、という白黒思考も強かった。

そんな私が理想とする生き方と夢は、人形劇にあった。
人形劇は、かつて神に捧げられる儀式のようなものだった。芸術には、概してそういうところがあるだろう。
人形は、にもなり(偶像崇拝、という言葉があるように)、不変の愛を与えるのようでもあり、また供のように愛される(バディ=シャヴァンスの「人形劇の歴史」によると、人形への愛は、はじめは母性本能の反映だそうである)存在である。

人形に生命を与えるために身を捧げる人形遣いの仕事は、神の愛に近づき、全ての生命を愛し大地を創造する偉大なる母になることでもあると思った。
これ以上、美しく、誇れる仕事があるだろうか。
こども心をもったまま(人形劇には子供の役や童話が多い)人に愛を与えつづけるという意味でも、まさに理想の大人の仕事だ。

。。。大きな理想を胸に、プロの人形劇団にとびこんだ。
でも。である。

舞台役者として求められる能力が全て欠けていた。
まず、常にみられた状態で仕事をする、というのがとてもストレスなのだ。子供たちを笑顔にするプロの舞台役者は本番中のみならず稽古時も、それ以外も、常に見張られている。性格に対しても、体型に対しても、監視されているようなところがあり、誰がみても美しくあらねばならない(と言われているように感じた)。
そもそも私は人が怖く、自分に自信がないので、年上の人や経験のある人を目の前にすると萎縮してしまい、ただでさえ小さな声がもっと小さくなる。緊張が表に出やすいので、すぐ身体がこわばり、過敏性腸症候群を発症する。
舞台に上がるための必要条件である、リラックスしたニュートラルな身体になることができない。
その上、未経験で何十歳も上のその道のプロの方々と同じ舞台に立つのだから、なおさらである。

当時の私はすごく無知で、それでも若いゆえの無鉄砲さがあった。社会も自分もよく知らなかったし、舞台に立つ責任や怖さより私には人形劇しかないという自信だけが確かだった。
その自信だけが確かだったから、ほんとうに思っていることしか堂々と話せない自分は、就職とか面接ができたのも人形劇団だけだった。
(折り合いをつける、曖昧に、ができないのだ)

けれど、ものをすぐ紛失したり片付けられなかった(小物や人形がメインに登場する人形劇では、ものの管理ができないことは致命的である。携帯をなくして連絡がとれなかったことも。)り、対人恐怖気味なところや人の感情を受け取りやすいところもあったので、常に刺激的な現場で自分を守るために思考がグルグルと止まらず、先輩の舞台を見学していても過度の緊張とプレッシャーのためか信じられないほど内容が頭に入ってこない。
美しい生き方をしたいと思っていたはずなのに、自分がどんなにダメな人間かを自覚させられるばかりの日々。
こんな自分を、みないでほしい。。

私は、舞台では演じきれるものではなく本質の自分がみえてしまうという認識(嘘はみせたくない)だったので、こんなにダメな自分が晒されるのはほんとうに恥ずかしく、また、人形のために自分を犠牲にするのが美しいと思えば思うほど、理想に反して人形よりも自分を認めてほしい、愛されたいと思ってしまうことが自覚させられた。
それは苦しく、人にみせたくない感情だった。

これまでずっと、わたしはひとりで大丈夫だと思っていたし、女性的な部分だったり、感情が動くことは隠すべきものだと思ってきた
寂しいとか、わかってほしいとか、そんなこと思うだなんて。。
人に愛を与える人間になりたいと願い、そう思える自分に誇りを持っていたのに、1番愛を欲しがっていたのは自分だったのか。。

こんな状態じゃ、何も与えられない。

周りの人だってけしてカンペキではなかったはずだけど、プロの人形劇団員としてやっていくためには、弱さを曝け出す覚悟とそこからくる真の強さ、勇気、揺るぎない人の愛への信頼とそれに基づく適正な優しさが必要なのだということを学んだ。

今考えると、HSS型HSPやASD、ADHDの特性が強く出ていたのかなと思うけど、詳しくはわかりません。
(劇団に入る前、ケーキ屋のバイトがうまくいかなくて病院でテストを受けたら発達障害グレーゾーンといわれたことはある。昔からそういう気質はあったのかもしれない。)

舞台に立ち理想を追う勇気も自信もなくて、何より自分の存在に自信が持てなくなった。

からっぽだ。

人形劇しかないという、唯一の自信も失った。

ただひとつ確かなことは、わたしは自分を愛せるようになるために、そして人を愛したいから、そのために何か表現が必要で、いまでも自分で人形を作ってみたり人形を動かしたり人形で発信したりしているということだ。
(単に楽しいというのもある)

それは、人形の犠牲になるのではなく、人形とともに人間らしく生きるということでもある。

自分のペースで、ひとりでも、仕事ではなくても、誰かのじゃなく自分の世界観を発信できる文章や映像のプラットフォームをみつけたことは、わたしにとって楽しく、幸せなことだ。
最初の理想とはすこし違っているかもしれないけれど。

この場所があれば、なんとか自分を立て直せるかもしれない、と思った。

表現方法は時々によって変わるかもしれないけど、なんにせよ、自分でものを作ってみたり、感じ、表現できることが、幸せや人間らしさに関わってくると思う
自分の感覚を信じて、安心して表現できるということは、多様性を認めない社会では当たり前のことではない

日々のさりげないことにも美しさはある。
食器を洗ってすっきりしたとか、ゆっくり風を感じられたとか、そんなことが嬉しい🌼

一歩一歩。。。

そしていつか、自分を救うために表現したことが誰かに繋がって。。ちょっと背中を押したりなんかして。。表現することが当たり前になって。。

そんなことができたら嬉しいな🌱

夢をのせて。






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