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【エッセイ】下総④─模擬天守の中にある博物館─(『佐竹健のYouTube奮闘記(53)』)

 模擬天守となっている博物館の中に入った。

 入口には受付の人がいた。

 受付の人は、

「どちらから来ましたか?」

 と尋ねた。

 私は素直に、東京です、と答えた。

 受付の人は、少しの間考えたあと、どうぞ、と言って中へ通してくれた。

 もし、ここで埼玉とか横浜と答えたら、どう対応が変わるのか気になる。


 展示品は、中世の千葉氏や小田原北条氏と安房里見氏が戦っていた戦国時代についての展示がメインである。もちろん千葉県についての展示なので、平将門や上総広常のことも紹介されている。

 2階には木彫りの千葉常胤像があった。

(なんか、よく見るとこの常胤像、岡本信人さんの演じてた千葉常胤に似てるような?)

 千葉常胤像を見たとき、私はふとそんなことを感じた。輪郭とか目の辺りとかが、『鎌倉殿の13人』で千葉常胤役を演じていた岡本信人さんによく似ている。もしかしてだが、脚本監督をしていた三谷先生は、この千葉常胤像と雰囲気が似ている人物を意識してキャスティングを考えていたのだろうか?

 3階は中世の千葉氏についての展示がたくさんあった。千葉氏の誕生から滅亡までについてわかりやすくまとめられたパネルや、大鎧、元寇の際元軍が攻めてきたときの様子を描いた『蒙古襲来絵詞』の写しなどが展示されていた。

 千葉県の中世にまつわる展示は、千葉の千葉氏だけではない。平将門や平忠常、そして上総広常や九州や東北、そして武蔵の千葉氏についての解説もある。


 3階の千葉氏以外の展示については、千葉氏以外の展示は、戦国時代の当世具足や書状、江戸時代の御触書とかが書かれた制札などがあった。あと、関東を攻めた上杉謙信についての解説もあったような覚えがある。

 前にも話したが、上杉謙信は関東を攻めている。それも何回も。調子のいいときは、北条氏康の居城小田原城の目の前まで進軍した。だが、甲斐の武田信玄の動きなどもあり、引き上げざるを得なかった。

 そんな上杉謙信の関東越山であるが、実は安房の里見氏や下総の結城氏、常陸の佐竹氏や小田氏とも連携していた。

 下総の結城氏、常陸の佐竹氏や小田氏は、平安から鎌倉にかけて、関東に代々根を張ってきた源氏や藤原氏の一族である。安房の里見氏は、もとは群馬にいた新田一族の支流であったが、ワケあって安房に落ち延び、以来拠点としていた。安房里見氏が上野から安房に移った詳しい経緯については、滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』にわかりやすく書いてある。

 もちろん佐野昌綱(下野。唐沢山城城主)や成田長泰(武蔵。忍城城主)のように、上杉謙信に敵対していた者もいたが。

 なぜ、関東の名族たちが、上杉謙信を頼ったのかというと、小田原北条氏という新興勢力に領地を脅かされていたからだ。

 小田原北条氏の祖伊勢新九郎は、もとは伊勢氏という桓武平氏の一族であった。

 その伊勢新九郎が関東に下向し、堀越公方という足利将軍家の分家を滅ぼし、伊豆を手に入れた。ちなみにこの伊勢新九郎は、北条早雲である。

 新九郎は相模へと進軍して大森氏を滅ぼし、拠点を小田原に定めた。そして三浦氏を滅ぼして相模を統一した。

 氏綱の代に名字を「伊勢」から「北条」に改めた。伊勢よりも鎌倉幕府の執権を務めた北条の方が、関東の諸氏を納得させられるだろうと考えて。

 ここに小田原北条氏が誕生した。そして氏綱は領地を拡大させていった。西は駿河、東は下総まで。

 氏康の代に、川越夜戦で古河公方と山内・扇ヶ谷上杉家に勝ってからは、上野や下野にも勢力を拡大していった。

 その関係で、関東の名族たちはお家存立の危機であった。

「何ヵ国の盟主VS一国一城の主」

「何ヵ国の盟主VS関東のいち領主」

 上に挙げたとおり、小田原北条氏と関東の領主たちの争いは、単独で戦っても絶対に負ける絶望的な構図だったからだ。強力な味方がいなければ、対抗できない。

 このような背景から、同じく北条と敵対していてかつ戦いも強くて経済力もある越後の上杉謙信を頼って戦いを進めていたのだ。

 戦国時代といえば、隣国の大名同士の戦いのイメージがあるが、遠く離れたところの大名や領主と何かしらのつながりがあることも往々にあった。美濃の土岐氏と上総の土岐氏のように遠く離れたところに住んでいる一族だったり、尾張の織田家と越前の朝倉家のように昔は同じ主君に仕えていたりといった感じで。

 日本史は隣と隣という関係で見るのも面白いが、遠くに住んでいる同族とか、昔の一族同士の関係性から見てみるのもまた面白いものである。


 4階は近現代のものが展示されていた。

 4階の展示の中でも特に印象に残っているのは、団地の家の中を再現したコーナーだろうか。妙に生々しいリアリティがあるなと感じた。

 私は高度経済成長期やバブル期を生きていない。だが、それでも何だかこの展示の中で、本当に家族が住んでいそうに感じられるのだ。

 家族構成は、父親と母親、そして子供の3人。子どもに関しては、息子でも娘でもいい。いや、ここでは娘の方がドラマにしやすいか。

 この一つ屋根の下で、日常生活という名のドラマが繰り広げられていると考えると、いろいろ想像がはかどる。

 あと、私が仮に40、50まで生きていたら、高島平や桐ヶ丘の団地もこうして博物館に展示されているのだろうか? 東京都心の辺縁の発展を物語る民俗資料みたいな感じで。今の江戸博でもそれに近い感じの展示があった覚えがあるから、もう団地の情景も民俗資料となっているのだろう。展示には、黒電話やブラウン管のテレビといった、令和の世では珍しくなったものも数多くあるからだ。

 令和になってからそこそこ経つが、30年前40年前のドラマや映画の世界観は、実体を伴った生活から、古き良き日本の一部として懐古する対象へと変わりつつある。


 5階は展望台になっていた。

 展望台からは、千葉の街並みを一望できる。

 展望台から見えたのは、ビルや住宅街、そして千葉大のキャンパスと思しき建物であった。これだけを切り取って見てみると、東京とそれほど変わりはない。だが、東京と明らかに違うのは、海側に工場や煙突がたくさんあることだろうか。

(煙突か。東京周辺だとあまり見ないな)

 東京の方では、あまり煙突は見かけない。海の方はよくわからないけど、北側では、ほぼ見かけない。ただ、戸田橋の東側にそれっぽいものがあったような覚えもあるが。

 この後はどこにも寄り道せずに、東京へと帰っていった。


   ※


「さてと、次の行き先はどこにしようかな」

 私はパソコンでGoogle Mapを開き、上総編の行き先候補について調べていた。

 上総編で行く城は決めていなかった。行こうとは思っていたけど、どこもアクセスが悪いので、決まり手が見つからない。

(でも、木更津は行ってみたいな)

 木更津へは行ってみたいと前々から思っていた。『木更津キャッツアイ』という20年前のドラマで見たあの場所が、今もあるのか少し気になっていたからだ。

 さすがに放送から20年経っている。四半世紀近くも経てば、街の雰囲気もガラリ変わっているだろう。でも、どんなに時が経っても残っているものはあるだろうから、それを探しに行こうと思う。

(ちょっと距離も気になるから、調べてみるか)

 私は自宅から木更津まで、どれくらいの距離があるのか調べた。

 結果は、80キロ以上だった。

「うわっ!」

 とてつもない距離に、私は驚いた。自宅から高崎へ行くのとそれほど大差がなかったからだ。

「関東城めぐりも終盤となると、大変だねぇ……」

 下総の旅を終え、私は旅が終盤に近付いていることを悟った。

 残るは上総と安房の二国である。

(続く)


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