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空は夏と秋の境目

「山手線で一周すれば一時間つぶせます」

 そう言ってみたら、隣に座る夏井さんの凛々しい眉毛がくいっと上がった。

「野球?好きですよ」

 春の新歓シーズン、マネージャーやらない?と半ば強引に”溜まり場”へ連れて行かれた大学の非公認野球サークル、学内に数多あるようなとこ。

 口達者な三年の会長が、うちのメンツじゃ四年の夏井さんが一番上手いし文句無しにかっこいい、と、この場にいない人の話で盛り上げにかかる。夏井さんは主砲の外野手らしい。あの人、硬派だよね、柳田さんもそこが良かったんじゃないのと副会長も便乗する、銀行就職ほぼ決まりだし、って。

 かっこいいとこうやってすぐ取りざたされるのか、気の毒に。数日後に会った三年マネの柳田さんは、大人びた美人で手足はすらりと先まで細い、この人、角質とか指毛とかきっと無縁だ。サークルイチ押しナイスガイの彼女なら然もありなん。でも、すぐ人の口の端に上る美人も気の毒かも。まあ負け惜しみだ。

 梅雨明け頃から、就活を終えた夏井さんを数回見かけた。確かに背が高くキリッとして、でも、噂ほどかな。野球の上手い下手も、たまの試合だけでは”ど素人ではない”以上のことは正直よくわからなかった。センターフライを難なくランニングキャッチしていたけど。

「今日、来てたんですね」 

 大学最寄りの私鉄駅ホームに着くと、数メートル先にスーツの上着を小脇に抱えた夏井さんの姿があった。さして親しくない知人との遭遇は面倒だ。気づかぬフリでやりすごそうとしたのにそんな時に限って目があってしまい、仕方なく、ぺこっと頭を下げる。あ、一年のマネさん、とわたしの姿を認め、笑顔になる真白なワイシャツの人。

——夏休みの間に髪が伸びた。

「書類もらいに来てた。新宿で内定先の事前研修だからこんなん着てるけど、あっつい、死ぬわ」

 駅の周囲は、秋になるなんて認めないと言わんばかりのセミたちが、なり振り構わず鳴き声をあげて騒がしい。まったくセミってのは往生際が悪い。

 月並みな会話をし、入線してきた新宿行きの各駅停車に、ではお先にと乗ろうとしたら、おれもこれ乗る、と言う。え、新宿までなら次にくる急行のが早いのに?

「うん、時間あるから、各停で座って涼んでく。どこまで行くの?」

 いや、すいません、新宿です。バツが悪くなり、夕方のバイトまで時間があるとしょっちゅう各停で座って帰ってるのだと打ち明けた。

「ヒマなんだね」

「ヒマなんです」

 くくくっと目を細め笑う夏井さんと並んで座った。一緒に乗ってしまった各駅停車は、急行なら二十分のところを、一時間かけ緩慢に走る。

「おれもヒマなんだ、卒論も無いし」

 案外ゆっくり喋る人。平日の午後、郊外から都心に向かう各駅停車に乗る人は少ない。途中、大きな川に架かる鉄橋を通るからいつもの癖で、振り返って窓の外を眺めたら、つられて夏井さんも振り返った。鉄橋から見える広い空には、夏でいようか秋になろうかまだ決めかねてる陰影の濃い積雲が浮かんでいた。

「今年もブース出すって?」

 来月には大学祭がある。サークルでは毎年出店ブースで何かしら販売するのだそう。今年も計画している様子だったがあまり関知してなかった。もう一つ美術系の同好会にも入っていて、わたしはそっちの展示メインで参加します、そう言うと

「絵描くの?いいね。おれ、絵描くの下手だけど、見るのは結構好きよ」

 そんな完璧なリップサービス。実は、画材を用意しただけで、下絵どころか、描くモチーフすら決めてなかった。なのに、じゃあ是非見に来てくださいと口走ってしまう。展示場所決まったら教えてね、見に行く、の返しに同好会の名を告げられない。踊りはじめた心にまだ、抵抗する。

 止まっては走り走っては止まりを繰り返す各駅停車で、ぽつりぽつり様々な話をした。でも、できたばかりのわたしの彼の話と、柳田さんの話はしなかった。

 終点に着く頃、ヒマなら山手線一周すればいいですよ、と、たまにする密かな時間つぶしのことを口にしてみた。電車に乗るのが嫌いじゃなければ、くるくる変わる車窓の風景は飽きないから。

「なにそれ、面白そう。やってみたい」

 新宿駅でも、かすかにセミの鳴き声がした。


「雲の絵を描いたんです」

 夏と秋の境目のあの日、鉄橋から見た空の雲。でも、それを夏井さんに伝えるすべがないまま完璧な秋になって、大学祭も終わり、冬が来る。

「四年はもうほとんど来ないし、マネ連名で年賀状出そうね」

 恒例なのか知らないが、マネージャーでサークルの四年生に連名で年賀状を出すのだという。柳田さんが宛名を書いた葉書を並べた。当然、夏井さん宛のもあった。

「あの日お話することができて嬉しかったです」

 他の人には、無難に、お世話になりましたとか、卒業してもお元気でとか書いているのに。柳田さんにどう思われるかなと頭によぎったが、割り当てられた小さなスペースにそれだけ書いた。

 か弱い僕一人で山手線一周は無理です。付き添ってもらえたら出来ると思うので今度お願いします。

 夏井さんから年賀状が届いた。サークル名簿で住所はわかるが個別に返信とは律儀な人だ。間違いなく高校の芸術選択は書道でしたね、という達筆さと書かれている内容とのギャップに、葉書から目が離せない。

——こんなのずるい。こんなのの答え方は、知らない。

 一体この踊る心はどこへ向かうのが正しかったのだろう。せめて、あの日みたいにもう一度会えたら、雲の絵を描いたことを伝えられたのに。私は夏が一番好きだと言ったのに。


 大学生じゃなくなる日、雲の絵は同好会の部屋の隅に置いてきた。か弱い人からの葉書もいつしか無くした。

 きっと二枚とも、夏と秋の境目の空で雲になってる。



創作大賞2022応募のため、リライト、再掲。

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