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「好き」とは何か。(“好き”の形について/“好き”の基準)


前回の投稿はこちら▼

前回に引き続き、『“私”による翻訳』の冊子の内容について載せていこうと思う。


③「好き」の形について
ー 「好き」は色々な要素の複合体 ー

『好き』には色々な形がある。
ひとつだって同じ形はない。

「恋愛感情の好き」「友達としての好き」「尊敬」など、型に当てはめてしまいがちだが
そもそも、いくつもの要素が組み合わさって複合的に形成されている感情なので、一言で表せるわけがない。

無理に型に当てはめるよりも、その時に感じた自分の感情一つ一つを大切にしてあげたり、その気持ちに真正面から向き合ってあげることこそが大事なのだと思う。

それでもやっぱり、「型に当てはめた方が安心できる」みたいなところがあり、この人に対しての『好き』はどういう感情なんだろうか、と意味もないのに永遠と悩み続けてしまったりする。

なにかと分類したがるのは、人間の性なのかもしれない。





④「好き」の基準
ー 私にとっての「好き」の基準 ー

私は、「この人のことが好きだ」と自分の中で定義するにおいて、一種の基準というか、ボーダーラインのようなものがある。
「相手のことを一日中考えるようになったら、『好き』」
「自分を犠牲にしてでもその人のために尽くしたいと思ったら、『好き』」
「自分よりも相手の幸せを願うようになったら、『好き』」
「相手の全てを知りたいと思ったら、『好き』」
「この人を誰にも取られたくないとと思ったら、『好き』」
「“恋愛的に好き” と “人として好き” の両方が共存したら、好き」  
など。

この基準を満たしていたり、一種のボーダーラインを超えていたりしない限りは、自分の中で、『好き』ではない、ということにしている。

たとえば
「この人は『気になる存在』ではあるが、『好き』までは到達していない」
「この人は『好き』なのではなく、『推し』だ」  など。

しかし時には、この基準が分からなくなってしまうような、新しい形の「愛」に出会うこともある。

たとえば、自分がそれまでに好きになってきた人と比べて、この人に対する「恋心」は少なく感じるが「愛情」「人として好き」はすごく大きく感じる。
これを『好き』ということにしても良いのだろうか、と考え始めると止まらない。

自分の中での、元々の『好き』のボーダーラインを基準に考えると、『好き』には当てはまらないのかもしれない。
しかし、元々のボーダーラインがもっと低い人や、自分とは違った基準を持った人からしたら
この感情は『好き』に当てはまるのかもしれない。

とはいえ、この想いを『好き』ということにしてしまったら、自分の中でのボーダーラインも、これまでのものと変わってきてしまう。
それに、その「ボーダーライン」に達していない人を自分の中で、簡単に『好き』ということにしてしまったら、過去の自分に対して、申し訳なくなってしまう。
心臓が痛くなるくらい本気の恋をしていた、かつての自分に「その程度で好きとか言っているの?」と、きっと怒られてしまう。

そんな葛藤が、私の中では日々繰り広げられている。



ー「好きな人は一人ではないといけない」という考え方 ー
「好きな人は一人ではないといけない」という考え方が無意識に頭の中にあり、その考え方に常に支配されているような気がする。

私は、自分にとって「一番好きな人」がいると、
すごく魅力的な人や気になる人が他にいたとしても「私はあの人のことが好きなのだから、この人に対しての『好き』はそういう『好き』ではないんだ」と無理矢理自分に言い聞かせ、好きにならないようにしているような気がする。

私が過去に出会った人の中には、私にとって「好きな人」がいない時期に出会っていたら好きになっていた可能性のある相手も、もしかしたらいるのかもしれない。
元々「好きな人」がいた時期に、他の人のことを気になり始め、「本気で好きだ」と思うようになってからは、自分の中で勝手に「今はこの人が一番好きなので、元々好きだった人のことはもう好きではない」ということにしていた。
今になって考えると、その時点では、最初に好きだった人への「好き」という感情もまだ完全には消えていなかったと思う。

結局はすべて、自分自身を正当化するためだけの
「思い込み」なのかもしれない。

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